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塚本短歌散策ガイド本(入門書)

『レダの靴を履いて 塚本邦雄の歌と歩く』

塚本邦雄の短歌をやわらかく、わかりやすい言葉で紐解く、塚本の薫陶を受けた著者ならではの一冊。塚本ファンはもちろん、塚本初心者の読者にこそ届けたい。塚本邦雄の短歌の魅力「美しい空白」を味わうために―。
目次
プロローグ 美しい空白―短歌への扉
見えない心を言葉に―魂のレアリスムと句跨り
少女を詠んだ歌―甘くなくて怖い
言葉遊びの復活―エキスを搾り出し掬い取る
哲学辞典「、」と「。」とメリハリ―見立ての技法
読者への贈り物―省略された動詞がもたらす歌の魅力
積み重ねられた言葉の魅力―広義の本歌取り
詩歌の魅力―本歌をたどるたのしみ
花と眼の歌―鮮烈なイメージ
生き生きと甦る日常―世界を知る喜び〔ほか〕

この塚本邦雄の解説本はわかりやすかった。岡井隆が西行なら、塚本邦雄は藤原定家だというのがよくわかる。

副題に「塚本邦雄の歌と歩く」という塚本短歌のガイドブック。解説が漢字の謎解きみたいで面白い(塚本も権力の漢字改革が過去の繋がりを断ち切ってしまったと考える。だから塚本の使う旧字には過去の古典文化の繋がりがあるという)。ただ理解出来るから面白いわけで、全く理解出来ないと意味がないだろうと思うのだが、塚本邦雄は藤原定家だった。短歌は遊戯的に遊んでいる感じ。その読み解きの中に時代へのメッセージがあるという。

革命歌作詞家に凭りかかられてすこしずつ液化してゆくピアノ 塚本邦雄

『水葬物語』

この歌はシュルレアリスムを気取っただけかと思ったら、原爆のことを詠んだ歌だという。そういうリアリズムが必要だということだった。いわれなければわからんけど。今読むのと当時の社会状況で読むのとは違うのかもしれない。同時代性みたいなものか。

ゆきたくて誰もゆけない夏の野のソーダ・ファウンテンにあるレダの靴 塚本邦雄

『水葬物語』

短歌の扉はそこにない世界を開いてくれる言葉は扉の暗証番号のようなものなのかもしれない。秘密のキーワード。ここではソーダ・ファウンテンがヒントになっていて、夏の野という世界と「レダの靴」というキーワード。レダはギリシヤ神話に出てくるヒロインでそんなヒロインが残していった靴なのだ(シンデレラのような話なのか?)。そういう乙女チックな部分があるから女性にも人気があるのだろう。また塚本短歌が連れ出してくれる世界は和歌の世界というのもある。

少女死すまで炎天の縄跳びのみずからの圖驅けぬけられぬ 塚本邦雄

『水葬物語』

少女趣味はあまり好きではないのだが、塚本が使う少女とかはアニメオタクっぽいのかもしれない。そんなアニメを思い浮かべればいいのかも。

 ものがたり
エスキャルゴオ・かたつむり
エコルス   ・樹の皮
エコオ    ・うはき
エスキャルパン・舞踏靴
エリス    ・らせん
エスプリ   ・だゑん
エスキナンシイ・に扁桃腺炎 塚本邦雄

『水葬物語』

「エソ・ドブレ」と題された短歌だというのだが、詩としての短歌だろうか?フランス語の単語と日本訳。ただ「エスプリ  ・だゑん」とか恣意的に意味を汲み取っているのかもしれない。「エスキナンシイ・に扁桃炎」の最後「に」が入ることによって短歌の着地に成功しているのか(こんなの短歌じゃないという人もいると思うが)。言葉遊びの世界だという。和歌がもともとそうした貴族の言葉遊びの世界でもあったわけだった。上段も下段も三十一文字ということで、ここにも歌のこだわりがあるのだった(冗談みたいな話だが)。これはシュルレアリスム詩に近いのか(アポリネールの影響があるという)?

終夜、毛蟲のメタモルフォーズ。はたはたと翅とぢておもき哲學辭典 塚本邦雄

『水葬物語』

「毛蟲」は群れているから「蟲」なのか。「辭典」の「辭」は神の摂理という意味があった。句読点も注意が必要だという。そこで断絶するのはメタモルフォーズするからだ。和歌の見立てというテクニックがあるという。「哲學辭典」を蛹と読んでいる。

卓上に舊約、妻のくちびるはとほい鹹湖の暁の睡りを 塚本邦雄

『水葬物語』

塚本邦雄というかこの世代はキリスト者が多いのだ。「舊約」は「旧約聖書」。「鹹湖」は塩湖で死海文書とか発見された場所であろう。それだけで浪漫ちっくな短歌か。塚本邦雄はロマンチストだった。結句の「を」の後に省略された言葉を想像するのがポイントらしい。「睡り」だったらアンニュイな妻の情景で「欲つす」だと男の欲望もあるのかもしれない。

ここを過ぎれば人間の街、野あざみのうるはしき棘ひとみにしるす 塚本邦雄

『水葬物語』

「ここを過ぎれば人間の街」はダンテの『神曲』の導入の言葉なんだそうだ。上田敏翻訳詩『海潮音』とかにでてくるから必読書ということだ。本歌取りの技法。

いたみもて世界の外に 佇た つわれと紅き 逆睫毛さかさまつげ の曼珠沙華 塚本邦雄

『水葬物語』

塚本邦雄は花と眼を題材にしたものが多いという。花が観る世界ということ。曼珠沙華という言葉には法華経に「梵語で、赤くやわらかな天界の花 みるものの心を柔軟にする」という意味があるという。「いたみ」は「痛み」「痛み」「悼み」といろいろ考えられる。また坪野哲久の歌も想起されるという。

曼珠沙華のするどき かたち 夢にみしうちくだかれて秋ゆきぬべし 坪野哲久

『桜』

海底に夜ごとしづかに溶けゐつつあらむ。航空母艦も火夫も 塚本邦雄

『水葬物語』

戦艦大和かと思ったら大和は航空母艦ではなかった。赤城、加賀、飛龍、 蒼龍がミッドウェイ海戦で沈没したとのこと。句跨りで「あらむ。航空 母艦も火夫も」で切れる。「腰折れ歌」という塚本邦雄の句跨りのテクニック。

乾葡萄のむせるにほひいらいらと少年は背より抱きしめられぬ 塚本邦雄

『水葬物語』

匂いの効用。塚本邦雄は少年とか少女が好きなんだな。

夕映の 圓塔 ドームからあとつけて来た少女見うしなふ環状路 塚本邦雄

『水葬物語』

眼を洗ひいくたびか洗ひ視る葦のもの想ふこともなき茎太き 塚本邦雄

『水葬物語』

塚本邦雄は眼の作家なのか?ただ視ることだけに徹して、考えることがないというパスカル『パンセ』の本歌取り。

くりかえし翔べぬ天使に読みきかす───白葡萄醒酸製法秘傅 塚本邦雄

『水葬物語』

これもトリッキーな句である。「白葡萄醒酸製法秘傅」読めん。「醒酸」は「せいさん」だろうか?漢字の組み合わせで短歌を読むのは塚本邦雄の得意な秘伝だそうだ。

人間 ひと に飼はれて春過ぎ、だるい夏がすぎ、闘魚はうすき唇もてり 塚本邦雄

『水葬物語』

水槽で飼われた闘魚は闘争心を忘れて、その口も薄い唇となって何かを語りかけるのだろう、という歌。七七五八七の破調か。句点もあるので、そこが句跨りになっていたり、変則的な歌だが闘魚のメタモルフォーゼ(変態)というほどでもないのかもしれない。タイワンキンギョとか解説で闘魚と言っているが。

ベタみたいな魚なのか。絶滅種になっているではないか。ベタでいいのかも。

園丁は薔薇の 沐浴ゆあみ のすむまでを蝶につきまとはれつつ待てり 塚本邦雄

『水葬物語』

園丁は庭園の管理者か。そうすると森林浴みたいなことを沐浴と言っているのか。ちがった。薔薇の水やりのことだという。目下のものには「やる」といい「上げる」は使わないとのこと。このへんの言語感覚は厳しい塚本先生であった。でも薔薇は女王かもしれないのでは?園丁は目下の表記のような気がする。

氷上の 錐揉少女霧きりもりをとめきら ひつつ縫合のあと見ゆるたましひ 塚本邦雄

『星餐図』

塚本邦雄の短歌は言葉遊びなんだな。これはフィギアスケートの少女だと理解出来る。縫合はスケーティングのイナバウアーとかの演技だろうか。荒川静香の時代も遠くになりけりだな。この頃はジャネット・リンかな。ビールマンスピンが好きだった。デニス・ビールマンだった。

ジャン・コクトーに肖たる自轉車乗りが負けある冬の日の競輪終る 塚本邦雄

装飾楽句 カデンツア

人名を読み込むでその作品世界に誘うマジック。ここではジャン・コクトーという自転車の乗りが外れ券の舞う競輪場となる情景、ほとんどジャン・コクトー好きには説明のいらないイメージ(『恐るべき子供たち』の映画の冬世界のような)を導くのは、そうした作家への耽溺な愛(ファン心理)というものかもしれない。

雪はまひるの眉かざらむにひとが傘さすならわれも傘をささうよ 塚本邦雄

装飾楽句 カデンツア

コクトーの繋がりからそれはもう過ぎた郷愁でしかすぎないのか。藤原公任と清少納言の相聞歌の本歌取りだという。

空寒み花にまがえて散る雪にすこし春あるここちこそすれ 清少納言

『枕草子』

藤原公任の相聞歌に清少納言がそれは花ではなく雪ですと答えたシーンが『枕草子』にあるという。『光る君へ』でそんなシーンがあったかも。ということは清少納言の生まれ変わりが今の時代に応えたということか?

死が内部にそだちつつありおもおもと朱欒 うちむらさき のかがやく挽果 塚本邦雄

装飾楽句 カデンツア

「朱欒」という柑橘系のザボンだという。柑橘というとかつて和歌で詠われた「橘」とかの成れの果てなのかもしれない。それが挽歌=挽果ということか。

青年の群れに少女らまじりゆき烈風のなかの撓める硝子 塚本邦雄

装飾楽句 カデンツア

これもコクトー『恐るべき子供たち』を感じる。「朱欒」の直ぐ後の歌だから撓める(たわめる)硝子というのは、その内側の脆さだろうか。

きさらぎは世界硝子の 龍 このごとし戀人が藍のかはごろも脱ぐ 塚本邦雄

「龍」はタツノオトシゴだろうか?タツノオトシゴの脱皮のようなかはごろもを脱げば、もう龍になるのではないか。ウロボロス的な世界を想像するのはこれも『恐るべき子供たち』から。

愛戀を絶つは水断つより淡きくるしみかその夜より快晴 塚本邦雄

『星餐圖』

『星餐圖』は1971年刊。岡井隆が歌壇から失踪と三島由紀夫の自決。「愛戀」とは、そういうことも含めるのか?別れの歌が主題だという。「その夜より快晴」は世間のことか。

水道管埋めし地の創なまなまと続けりわれの部屋の下まで 塚本邦雄

装飾楽句 カデンツア

「地の創」は様々な管によって傷つけられた地球だという。比喩が異様なのか、比喩というよりも象徴か。「水道管」が地球に繋がれた管のような病人状態なのか。「創」は刀で傷つくことだが、そこから何かが始まる。文明ということか。

復活祭イースター まず男の死より始まるといもうとが完璧なきまでに 粧けは ふ 塚本邦雄

『緑色研究所』

復活祭はイエス・キリストが復活する日だよな。妹が完璧な化粧をするというのはどういうことなのだろう。妹はマグラだのマリアで美の追求だという。文学者は妹をよく描くという。塚本邦雄はキリスト教文化を取り入れようとしたのが『緑色研究所』ということだった。

五月来る硝子のかなた森閑と嬰児みなころされたるみどり 塚本邦雄

『緑色研究所』

新緑の緑は生死背中合わせという。よくわからん。みどりごから嬰児だと思うのだが。マタイ福音書のヘロデ王の嬰児殺しということらしい。

いもうとはつきくさの血につながるときのふ知りたること今朝はおぼろ 塚本邦雄

『感幻楽』

「つきくさ」はツユクサ。「つながると」できれ「昨日知りたること」になる。つまり妹がおぼろになるということなのだろう。萎れてしまうということか?ツユクサは放射能(セシウム)の検査に使われるという。

鐵鉢に百の櫻桃ちらばれりあそびせむとやひとうまれけむ 塚本邦雄

『天變の書』

「鐵鉢」は「鉄鉢」塚本邦雄が旧字にこだわるのは「鐵」という文字が表意文字として黒いという意味があり、もともとは鉄の武器であった。そんな鉄鉢に黄桃が実を付けているのは、鉄で射抜かれたように血しぶきが飛んでいるイメージ、「あそびせむとやひとうまれけむ」は梁塵秘抄の今様で今で言う流行歌で「遊ぶためにうまれてきたのだろうか」の意味。桜桃が太宰の命日桜桃忌を連想させ、塚本邦雄の忌日も6月9日だった。

柿の花それ以後の空うるみつつ人よ遊星は炎えてゐるか 塚本邦雄

『森曜集』

短歌の解釈は読み手の想像にまかせることが多く作者も八割ぐらいしか明らかにしないという。「柿の花」の白い花が星のように見えて、「遊星は炎えてゐるか」は輝いているかの意味だという。ただNHKスペの「パリは燃えているか」(ルネ・クレマンの映画らしいが)を連想する。また尾崎まゆみは山中智恵子の短歌も思い出すという。

さくらばな陽に泡立つを目守りゐるこの冥き遊星に人と生まれて 山中智恵子

『みずからありなむ』

夏至の夜の孔雀瞑れる孔雀園くれなゐの音楽は 歇や みたり 塚本邦雄

『星餐圖』

夏至の夜に孔雀が眠るようなくれなゐの音楽をというのだが、各自想像する楽しさか。尾崎まゆみはショパンのスケルツォ第二番、オイゲン・キケロのジャズでということだ。

わたしはヴィラ=ロボスの「アリア」だな。


ライターもて紫陽花のに火を放つ一度も死んだことなききみらへ 塚本邦雄

『緑色研究所』

寺山修司のマッチの歌を思い出すが「きみらへ」というのが上から目線で若者に放った言葉だという。三島由紀夫が誉めたという。啓蒙短歌か?「オマエモナー」と言いたくなってしまう。もしかして学生運動を詠んでいるのかもしれない。

立春の空酢の色に楽器店までのかをれる五百メートル 塚原邦雄

『天變の書』

「酢」の名歌というと葛原妙子なのだが、それを知らないとちと苦しいかな。

挽夏光おとろへし夕 酢は立てり一本の壜のなかにて 葛原妙子

『葡萄木立』

葛原の「一本の壜」というのは投壜通信みたいだ。それを開けた塚本の返しか?「五百メートル」グリコの一粒で三百メートルを連想させる。

使途一切不明なれども一壜の酢をあがなへり妖精少女 塚原邦雄

『天變の書』

こっちの歌の方が本歌取りとしてわかりやすい。

アヴェ・マリア、人妻まりあ 八月の電柱人のにほひ灼けて

『緑色研究所』

これも葛原妙子のマリアの歌をイメージさせる。

マリヤの胸にくれなゐの乳頭を點じたるかなしみふかき繪を去りかねつ 葛原妙子

  『飛行

この年代の人はキリスト教の短歌が多いような気がする。

醫師は安樂死を語れども逆光の自轉車屋の宙吊りの自轉車  塚本邦雄 

『緑色研究』

『緑色研究』が出版されたのが1965年だから「安楽死」についての随分早い歌だ。この時代はまだ尊厳死殺人などの事件は起きていなかっただろう。尊厳死と安楽死の違いもよくわからなかったのかもしれない。説明されても宙吊りの自転車という比喩が効いている。当事者性ということか?宙吊りの自転車がキリストのようでもあり、著者も鎮痛剤のようにこの歌を思い浮かべたと。

細蜂少女 すがるをとめ 天蛾少女 すずめがをとめふつふつと受難楽鳴るラジオをかかへ 塚本邦雄

『水銀伝説』

すがるをとめはジガバチという。蜂の腰の細さを詠んだ高橋虫麻呂の「万葉集」から。

塚本邦雄の言葉遊びの世界から、「細蜂少女」から「天蛾少女」。他にもいすか 少女などこの用法がお気に入りだったらし、餓狼少女とかもあるかも。

ことばよりこゑにきずつくきぬぎぬの空や野梅(やばい)の蘂の銀泥の銀泥 塚本邦雄

『さらど遊星』

後朝のあとの言葉にきずついて野の梅の蕊が白銀のようだったという意味。「蘂」の字が難しい。蕊はクリトリスか?

受胎せむ希ひとおそれ、新妻の夜夜妻のに針のひかりを 塚本邦雄

『水葬物語』

絵画的イメージという。確かに受胎告知という絵画を連想するかも。「針の光を」は月光だという。しかし掌に針は、細いペニスを連想してしまった。先生のじゃなくって、たぶん。

ははそはの母は掃いたる八畳に月光を入れわれは出てゆく 塚本邦雄

『黄金律』

「ははそはの」は「母」を呼び出す枕詞(呪文)、それを掃いたるという八畳の部屋は誰のためのなのだろう。われだと思うのだが、月光を入れるという先ほどの受胎告知の歌を連想してしまう。初夜の部屋とか?「八畳」は「ハ行」の言葉を重ねる調べだという。

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