『舞踏会へ向かう三人の農夫』をレジスタンスとして戦争末期へ向かわせながら、オーウェル『1984』的世界を語るパワーズのポストモダン小説(長いタイトルになってしまった)
『舞踏会へ向かう三人の農夫 上』リチャード・パワーズ (著), 柴田元幸 (翻訳)
写真から物語を語るというのは、その前に読んだサイード『パレスチナとは何か』もあったので興味を引かれた。
ヌーヴォー・ロマンのノーベル賞作家、クロード・シモン『三枚つづきの絵』もそうだという指摘があり、ポストモダンの小説なのかと思った。
最初にフォードの息子がデトロイトに建てた美術館の、メキシコの芸術家ディエゴ・リベラ壁画の解釈があり、ディエゴ・リベラのフォード自動車産業のアメリカは、逆「オリエンタリズム」なのかと思った。
美術館のオーナー(フォード家の御曹司)は、美術館の目玉としてリベラに壁画を依頼する。リベラはアメリカの資本家から絵を依頼されるのだが、出来上がった絵がベルトコンベアーで人間性を奪われた未来都市の歴史というような壁画になって、それはアメリカに取って許しがたいことだという意見もでるのだが、アメリカの寛容さがそれを否定すると余計にそれは反資本主義のマルクス絵画になってしまうというので、壊されることなく今に至る。
そして時代はネット時代の80年代であり、オーウェル『1984』の見方がある。「舞踏会へ向かう三人の農夫」が撮られた20c始めは、フォードの自動車産業が進化したした世紀でもありT型フォードが一般庶民にも手に入る時代であった。それはドア・トゥ・ドアのスピード時代。写真がまさに決定的瞬間を切り取る時代であった(この写真のタイトルが「二十世紀の顔」となってデトロイト博物館に展示してあったのだ)。そして時代はオーウェル『1984』的世界なのだ。二十世紀も終わろうとしているオーウェルの『1984』はネット時代の世界であり、日本がアメリカを追い越そうとしていた(今読むと不思議な感覚になるが)。そうした中でデトロイトの自動車産業の衰退という事態がある。
そこにアメリカの戦争(破壊)という概念から読むアメリカがポストモダン(批評)的に語られているのだが、フォードが第一次世界大戦に戦争終結のデモンストレーションのために出した「愚かな者の船(Ship of Fools)」はフォードの目的とは外れるが、それが第二次世界大戦の自動車産業が軍事産業化していき、さらに現代になるとそれは戦争の中心となっている世界なのである。そのレジスタンスとしてパワーズは「舞踏会へ向かう三人の農夫」を戦争末期へ向かわせるのだった。ポスト・モダン的な構造主義的な試み。
『舞踏会へ向かう三人の農夫 下』リチャード・パワーズ (著), 柴田元幸 (翻訳)
ポストモダンとは批評なのである。この批評小説は19cのプルースト『失われた時を求めて』を批評していく、一枚の20c の写真(ポスト・モダニズムの写真論、ベンヤミンが引用されたりする)から仮装舞踏会のような21cに向かうオーウエルの世界のアメリカ(ネット社会への変遷)を語っていく一大浪漫小説なのだが、そこはパワーズのポストモダン小説(ピンチョンに代表されるようなエントロピー小説のような)となっていくのだった。
そこにアメリカの産業文化を築いたフォードの自動車産業がメキシコの壁画作家リベラによって逆オリエンタリズムで語られる導入部にヒントがあるように思える。それは予測不能の20c社会であり、そしてフォードの「愚か者の船(Ship of Fools)」という寓話は、やがて反体制のヒッピー世代のアメリカの歌となっていくのだ。
またアメリカ文化としてエミリー・ディキンソンが語られたり(無名の詩人が一躍アメリカ文化に欠かせない詩人となってしまう)、プルーストの19cの世界から(『失われた時を求めて』の世界)から登場人物の親戚なのかブロックと幻惑的なおしゃべりをする。またサラ・ベルナールは当時の舞台女優でプルーストの小説でもモデルとして登場してくる。それは偶像崇拝みたいなことだった。そこから、ベンヤミンの写真論とかポストモダン(写真批評として)に語られていくのだった。
写真が決定的瞬間を映し出さない決定的瞬間からパワーズは『失われた時を求めて』(オーウェル『1984』的世界)を語るポストモダンの小説にしたのだ。
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