シン・現代詩レッスン18
テキストは寺山修司『戦後詩―ユリシーズの不在』。戦後詩といえば「荒地」派だが寺山修司は「荒地」派の否定から始めているのだった。それは「死」の観念は誰もが巡り合うものであるのに、そのことを特化してみたり悲劇のように扱う大げさな言葉がウザかったのかもしれない。
ただ現代は死は隠蔽されるものでありそうそう死に出会える場も少なくなってきている。ニュースやネットでは死がこれほど言われているのに、自身の死は親の死に目か家族の死に目に出会うことで、悲劇的な歌を作っているのだ。そのプライベートな死から社会への死に結びつきにくいのが現代ではないのか?だから死がテーマの作品は溢れているし、それを求める現代人が多いのではないか?
寺山修司はむしろ安っぽい死に我慢ならなく、「人生は劇場である」というようにそこでは逆に華麗な死を演じてほしかったのかもしれない。寺山修司が取り上げた東大詐欺グループの山崎い晃嗣の自殺した短歌を取り上げて、むしろそれを称賛しているように思える。
今で言うIT社長の成れの果てのような。例えば先の黒田の惨めな死のうたは繰り返される「死の詩」でもあるのだ。
先の短歌よりも山本太郎の詩の方が響いてくるのはなんだろう。そこは寺山修司の時代とは違っていた。それでも今は実際の死よりも「死ね」というようなコトバが溢れている時代でもある。そのリアリティの欠如。
山本太郎の詩から15年後の詩(1965年)だった。この頃はまだ声を出していたのかと感じる。それがパロディとなるのだが、今は書き言葉の時代で声は失われているのでパロディにもならないのかもしれない。煽りあいのコトバだけのような気がする。そんな中で傷つき自殺するものさえいるのだ。
寺山修司は福島和昭の詩はより退廃があるというのだが、さらに退廃が進んだのが現代だろうか?上の詩から寺山修司が感じたのは「作者の貧弱な肉体」ということだった。笑っていいのかな。
女子プロレスラー出身のタレントの自殺があったではないか?今は寺山修司が言っていられるような時代ではないのである。ただ愛の欠落というのは似たような感じなのだが、その愛とはなんだよ、と思うのだった。
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