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シン・俳句レッスン182
NHK俳句
題「薄氷(うすらい)」
選者:堀田季何、レギュラー:庄司浩平。題「薄氷」。切字「かな」の効果的な使い方とは。「朧かな」を使って実践。キャラ弁と朧って合う?意外な取り合わせがハマる!?
切れ字の効用シリーズ三回目か?今日は「かな」の使い方。
「かな」は文末に来て直前の言葉で句全体を覆っていく余韻というような切れ字。これが切れ字とするのはなんでだろう。
一人でも大丈夫かな松手入
受験票どのポケットにあるのかな
上の句は切れ字「かな」ではなく、単なる疑問形である。これは切れ字の役割を果たしていない。
桜かな様々なこと思ひ出す
さまざまなこと思ひ出す桜かな 芭蕉
上は桜にしか「かな」がかかっておらず句が切れている。下は桜の形容詞として句全体が「かな」にかかって詠嘆している。
牡丹雪その夜の妻や匂いかな
牡丹雪その夜の妻の匂いかな
上は「や」と「かな」の切れが二箇所ありどっちを強調しているのかわからなくなる。
手をつけて海のつめたき桜かな
手をつけて海のつめたし桜かな
上は連体形「つめたき桜かな」で繋がっているが下は「つめたし(終止形)さくらかな」で切れてしまうので効果は薄い。
演習
「朧(春の季語)かな」を文末に置いて俳句を作ってみる。「季語のない名詞」+動詞・形容詞
「ゴールデンバットを吸う」これを定型に整える。
ゴールデンバット吸ひしとき朧かな 宿仮
イマイチだな。
両切りのゴールデンバット朧かな 宿仮
二箇所切れがあるのだがゴールデンバットだから、でも付き過ぎか。なんで「ゴールデンバット」かというと「シン・短歌レッスン」で出てきたイメージから抜けられないのだった。言霊性が強い。
黄金バットの照れ笑ひ朧かな 宿仮
これでいいのか?笑ひは連用形か?
黄金バットの照れ笑ふ朧かな 宿仮
なんか終始形になるな。
こういう演習が苦手だった。「かな」思ったより難しいかな。これは疑問形。
<兼題>木暮陶句郎さん「田楽」、高野ムツオさん「スリッパ」
~2月3日(月) 午後1時 締め切り~
<兼題>堀田季何さん「アスパラガス」、岸本尚毅さん「海」
~2月17日(月) 午後1時 締め切り~
現代俳句
『「花鳥諷詠」に先進性はあるか』西池冬扇
まず「花鳥諷詠」を勘違いしていた時期があって、虚子は「花鳥風月」から月のネガティブさを除外してアポロン的な太陽に照らされた写生を言っているのかと思っていた。だから月=内面は写生とは言わないのかとおもっていたら虚子の俳句にも内面を詠んだものが数多くあり、虚子は虚無の子と書くと岸本尚毅の本を読んでなるほどと思った。
① 「花鳥諷詠」と「写生」の論理的整合性の議論
② 「花鳥諷詠」という「理念」の未来志向性の議論
③ 俳句における前衛とは、何かという議論
と問題点を整理している。①の「花鳥諷詠」は「写生」というと虚子の「写生」が内面というものを言っているのならば、それは写生と言えるのかというのがある。それはイメージ(象徴)でイメージと写生は違うのではという素直な問い。「写生」を主張したのは正岡子規だが、それは絵画的手法であり、デッサンというものだったと思うのだが虚子の「写生」は違ってしまった。むしろ正岡子規の「写生」は碧梧桐の方が厳密なんだと思っている。だから旅という自然との出会いを推し進めていく。虚子は日常の中に「花鳥諷詠」を詠んでいく。それは自然ということなのだろう。自然の中に自己も含まれるというならわかる気がする。自然主義が社会観察だというのはフランスの自然主義だが、それを白樺派は単に自然とみなした。その影響なのかノスタルジーな伝統社会に帰属するような伝統俳句の考えなのかと思う。
②に関しては日本伝統俳句協会の会長岩岡中正氏が「虚子への回帰」として常に主張しているというのは、そういうことだと思った。
③の課題は「花鳥諷詠」理念の未来性はその前衛性にあるとする考えで、筑紫磐井氏が上述の対談で主張している。この考えに近いのか芭蕉の「不易流行」ということだと思うのだが西行や古歌をたどりながらも「田植え歌(流行歌)」もみていこうという思想である。ただ最近芭蕉の俳句は見るという視覚の感性よりもその他の身体的感覚で捉えた句が多いと思うのだ。その部分でも目による「写生」という概念は外れると思う。さらに今は視覚の時代であるが、それでは駄目じゃないかというのが芭蕉の身体感覚にあると思うのだ。「不易流行」は目に見えないものを捉えようとしている。それはアニミズムというのは容易いが。
あと前衛の概念は人によって様々であると思うが昔の前衛が今も前衛とは有りえないことで、その部分で絶えず問いを持っていくことは必要だと思うのだ。この問いとは批評精神であり、金子兜太も批評出来なければ駄目だと思うのだ。それは伝統俳句と同じことではないのか。そうした中で現代俳句の中にそうした前衛性はあるのかと問いたい。単純な疑問として、選ばれる句は過去の俳句の蘊蓄を語ったものではないかということ。もっともそうした蘊蓄は技術論としては必要なのだろうが、と思う。ただそれだけならばAIにでも俳句をやらせとけと思うのだ。AIに出来ないことは俳句の定義を超えていくことだ。
前衛ということがなぜ必要なのかということなのである。それは内輪でわかり合える体質を外に拡げていくためなのだ。だから海外俳句のあり方として、そこに季語も五七五の韻律もないのだろうと思う。それは日本の特殊事情なのだと思うのだが、それで日本人とは何かとか規定しまうと枠から外れてしまう者が出てくるのだ。そうした者の可能性が日本人の内面も変えていくのではないかと思っている。それは同化という共生(矯正)ではないと思う。
「俳句の未来──作者から表現へ」坪内稔典
坪内稔典の公開講義で、俳句に自我が出すぎると誰も見向きもせず、そういう句ではなく行き当たりばったりの句のほうが評価されるというのだ。それは感じたことがある。集合的無意識みたいなものか。でもそういうのに流されたくないから自我を突っぱねるということがある。ただ、句会を見るとそういうことなのかもしれない。ゲームだと割り切ればいいのだ。上位者が決まってくるというのは、すでにその句会の集団無意識みたいなものがあるのだと思う。そこに新しさを求めるほうが無理なのか。
『現代俳句』でも新しい表現を求める意見も多いのだけど、結局今までの俳句がいいとなればそっちに傾いていくものだし、有季定型の句が多い。それは賞に選ばれるのもそういう句ばかりだからではないか?俳句のブームが『プレバト!』に象徴されるように、その中でいい句というのが決められていく。さらにその中でランク付けされて満足している現状ではないのか?革命を起こすには、師の言うことを聞かないことなんだと思う。そこで対峙するから今までと違った句が出来るのではないのか?俳句に文学的なものを求めるのは馬鹿なのかもしれない。場の言語ゲームなのだ。でもそういう俳句はAIにまかせておけと思うのだ。集団的無意識というのは得意そうだから。