シン・短歌レッス90
紀貫之の和歌
まだ紅葉には早い季節だが強風で散った紅葉の葉が色づいていた。カエデだな。紀貫之の歌は『古今集・秋下』。「夜の錦」は司馬遷『史記』の「項羽伝」からで、夜の闇では錦も見えなく役立たないというような意味。中国の古典からの本歌取りも多いという。まあ、自然に湧き上がる詩心なんて、本当の天才じゃなきゃめったにないだろう。紀貫之でさえそうなのだ。
菊はあまり顧みられてような。国花なんだよな。桜のほうが人気があるのは、季節によるものだろうか?菊で終わりという感じがしないでもない。仏前に供える花という印象もあるのかもしれない。
「にほふ」というのは見た目のことを言っているということ。色や光の照り返しが美しいさま。桜の花で「にほふ」があって、そんなに匂わんだろうと思ったがそういうことだった。ただ現代人の鼻は臭いものが多く退化しているのかもしれない。
「かざして」は髪に挿すことだが、手に持って掲げることも後の時代では詠まれたという。やたら花をかざすのは、この時代のおしゃれだったのかもしれない。
紀貫之の歌は菊の長寿ついて一般的に言われるがわが生命はいつ死ぬともわからないという無常観を歌ったものだという。『古今集』の仮名序に歌は人の心を歌うものだという歌論があり、鳥や花を歌っていてもその発露には人の心情があるということだ。
『古今集』
『古今集』もどこから読んでいいのか悩む。図書館本も返却期限が来たので返してしまったら迷子になった(電子書籍で読めると思ったのが、あまりおもしろくない)。そんなグダグダした時間を過ごしていたら動画でわかりやすいのがあるかもと思って覗いたら、『「古今和歌集」の創造力』の著者である鈴木宏子先生のNHK講義があった。
その講義の中で取り上げられていた和歌を見ていくことにする。
自分は静心なのに桜の花はどうして散るのだろうという、一見おだやかな光景だが桜の花に対しては批評的な理を述べている。それにもかかわらず全体的な歌の調べは淀みなく静心で流れていくのは、霞の中に漂う光に包まれている人の感情も桜の花と共に散っらされるのである。
「ひとはいさ」は宿主が女性という説もあるようだ。女性だと皮肉というよりも戯れ合いのように感じる。定家が『百人一首』を取るまでは注目されなかった歌だという。定家は女性に宛てた歌と考えたのかもしれない。
「木の間より」は人の気持ちが「心づくし」であるという。それは現代語の相手に気配りという意味ではなく、「気をもむ」という秋は「もの思う侘しい季節」という心情を『万葉集』の頃にはなく、『古今集』によって取り上げられたことで『源氏物語』の「須磨」で引歌として引用されることで有名となったという。
「山ざくら」の歌は霞の間からかすかに見えた桜のようなという比喩で、桜を恋しい人に喩えている。桜の歌は紀貫之が得意なパターンだった。それで女を口説くとなるとこういう歌を作るのだった。
「音(おと)にのみ」はうわさだけでまだ見ない女に恋する。「きく」は「聞く」と「菊」の掛詞。当時は菊といえば白菊でその上の白露。夜に現れるが昼には消えているという意味だが、「消ゆ」は死ぬ意味もある。おきては「起きて」と「置きて」の掛詞。「思ひ」の「ひ」は日であるのと火という掛詞。随分掛詞ばかりだけど歌の内容は大袈裟すぎる。宴会での歌だとか。歌のテクニックを示したかったのか?それも僧侶にあるまじき行為だな。
「思ひつつ」の小町の歌は思い続ければ夢で会えるのに夢が覚めてしまうという歌だった。小野小町の歌は可愛い。
「白玉と」は真珠のような涙も年を経て血の涙になったというこれも大袈裟な歌だ。宴会用だろうか?
「死ぬる命」も逢ってくれなければ「玉の緒」(わずかな)命で死んでしまいましょうという大袈裟な歌だ。ただこのぐらいの大袈裟なことは一途の恋ならば云うかもしれない。今の世界が淡泊すぎるので、この手の男は敬遠されるのだ。平安時代は藤原興風は恋の達人と言われたような。
「君や来し」は業平が斎宮との相聞歌で『伊勢物語 六十九段』。映画『寝ても覚めても』を連想させる。
小島なお
『女性とジェンダーと短歌』で現代短歌を学ぼうと思ったのだが一番の強敵は小島なおかもしれない。共感度があまりないのだ。それでつらつら読み進めていくに当たってヒントとなりそうな批評堀田季何『世界文学としての短歌の可能性』がかなり共感する部分があったのだ。まず短歌は短詩として五行詩で書かれているのが海外では短歌と認識されているのだが、俳句に比べて書き手が少ないという。俳句の場合は最も短い短詩であり、季語的な制限はあるはすでにそれは自由律という俳句分流として世界文学として認知されているのだという。その過程で季語的なのや、俳句の切れという技術も応用されてくる。短歌にはそれがないのでただ単純に五行詩としてのスタイルで短歌と名乗ればいいようなのである。それは日本の短歌から見れば明らかに違うのではないか。少なくとも伝統短歌の部類には受け入れがたいものがある。それ故に短歌は世界文学として成り立ち難い。しかし例えば『万葉集』や『古今集』が優れた翻訳をされたのなら、それは世界文学と認め得るのではないのか。その時の短歌の特徴はなんだろうかと考えるのだ。
『古今集』に「益荒男振り」と逆の言葉で「たおやめぶり」という言葉があるのだという。漢字で書くと「手弱女振り」。それは大いにヒントになるのではないか?
小島なお『両手をあげて、夏へ』(作品100首)
上の句と下の句は入れ子状態に成っている。「月」のモチーフが和歌的であり、「階段」は成長物語としての舞台なのか?
タイトルが「夏物語」という通過儀礼的な感じを受けるがすでに彼女は「秋(満月)」の視点にいるのだろうか?向こう岸は彼岸である。月が彼岸なのであるが、彼女はまだ歩道橋の階段にいるということだろう。
月面がベッド・インということなのか?
アニメ映画のような恋愛を想像しているのだろうか?そんな世界の部屋。
自転車の春のイメージは清々しい少女のイメージ。
それは架空のフィクション性の短歌ということだろうか?ちょっと寺山修司を感じさせる青春短歌だ。
自転車に乗っている少女から自転車に乗らなくなった少女へ。
漫画の世界のようでもあり、そのイメージが枠(ガードレール)をすり抜けてくる。
二次元の痛みのない世界からの脱出を願っているのか?
生殖のイメージがビニール傘の匂い。
「呼吸して」もセックスのイメージ。それに絶えられない肉体なのか?
読書少女のイメージ。
いたたまれない二人だな。いらいらする。
通過儀礼的な私か?
夏の蝶は、死んだ魂のような。寺山修司の夏蝶のイメージ。
「みな海と」はロマンチックな描写だが、その次の短歌で「作中主体」ということを強調する。
もう世界は地球儀に喩えられるほど、物語化されて進化していく。
それを否定していく二人称の私。
雨のイメージはなんだろう?架空の浪漫なのかな。
雨は物語のイメージ。雨の物語。
蔦屋かよ。蔦屋の貸しビデオみたいな。
分裂している我か?泣く人は自分であり、それを見ているのも自分である。
『最終兵器彼女』かな。そんな話に合わせる自分を風見鶏とおもっているのだろうか?
うたの日
「見」は「見る」しかないよな。最終兵器彼女にしようか?
『百人一首』
♪3つ。まあ、そのぐらいか。
映画短歌
『寝ても覚めても』
『百人一首』