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言葉の厳密性について
『高浜虚子 俳句の力』岸本尚毅
「単純なる事棒の如き句…ボーッとした句、ヌーッとした句、ふぬけた句、まぬけた句」を理想とした虚子の俳句の魅力はどこにあるのか。虚子俳句鑑賞の新しい手引書。
目次
第1章 虚無を飼いならした男(虚無を飼いならす;「虚子」とは何者か ほか)
第2章 俳句の力(沈黙の文芸;逆転の発想 ほか)
第3章 季題と想像力(「季題を殺す」;「季題の風景」 ほか)
第4章 孤独な選者(諷詠について;照れくささの美学 ほか)
今まで虚子をイメージしていたのは随分と違った。岸本直樹は理論家だけどわかりやすい。虚子は虚無の子という意味だと筆者はいい、虚子の句から醸し出される虚無的な余白のある句を指摘する。ただ虚子の主張そのものよりも虚子の俳句を解釈していくことで虚子の主張を読み取ろうとする。けっこう虚子の主張に矛盾があり、どうなのかと思うのだ。そういう論争をしないのが大人の態度だというのだが、言葉を扱っている以上それはないと思う。てにをはとか厳密性を指摘するのに差別用語には無頓着というか、それはどうなのかなと思う。
「虚無を飼いならした男」
有季定型の俳句理論ならやっぱ岸本尚毅が一番だと思う。わかりやすいし論理的だ。
虚子についても、立つ句ではなく平伏する句だという。大抵の良句とされているのは、立っている句なのだ。
突き抜けて天井の紺曼珠沙華 山口誓子
芋の露連山影正しうす 飯田蛇笏
虚子は虚無の子だというのだ。
大寒の埃の如く人死ぬる 高浜虚子
遠山に日の当たりたる枯野かな
虚子は死の運命は避けられないからそれを見つめていこうという態度だという。それに立ち向かったりせずにただ受け入れるだけの俳句。精神的に鼓舞する俳句ばかりだと疲れる。毎日ベートヴェンの交響曲を聴くのではなく自分がホスピスに持っていくとしたらモーツァルトの曲だという(決めつけすぎ、私ならパーカーだな)。俳句では虚子だという。
枯菊を剪らず日毎あはれなり 高濱虚子
炭を焼く静かな音にありにけり
なんのひねりを加えずそのままの句がいいとされる。簡潔な余白のある句で詰め込み過ぎない。例えば芥川龍之介は詰め込み過ぎるという。
木がらしや目刺にのこる海の色 芥川竜之介
文芸作品としては細密画のような句なのだが、虚子の句は余白の外にまだ時間が流れていく余地があるのだ。
流れ行く大根の葉の早さかな 高濱虚子
「断片」から「無限」の時に向かっていく広がりがある。
虚子の最後の句も虚子の性格が良くでている。
独り句の推敲をして遅き日を 高濱虚子
それぞれの俳人の辞世の句を見ても虚子はぐずぐず中途半端な感じなのだが、そこがいい。なるほど平凡な句の良さということなのか。力み過ぎない自然さの大切さ。
俳句の力
短歌は31音あるので言いたいことが言えるが俳句は17音なので最初からすべてを言おうとしないで諦める。そのときに力があるのは地名とかは連想が働く。
神にませばまこと美はし那智の滝 虚子
「美はし」とか駄目だろうと思うのだが、虚子は抽象的な形容詞は使う。
滝の上に水現れて落ちにけり 後藤夜半
こっちのほうが全然いいけどな。抽象的すぎるのか?
虚子は俳句でなければ言い表せないものを詠んだ(沈黙の文芸)。
来るとはや帰り支度や日短 虚子
風が吹く仏来給ふけはいあり 虚子
「けはい」という描写しないことが読者の想像力を掻き立てる。子規の写生とまったく違うことを言っている。これじゃわからんよな。
「調子」の力
春潮や海老はね上がる岩の上 虚子
虚子は早くから子規との俳句観の違いを意識していた。そういうことなのか?
草枯れて夕日にさはるものもなし 虚子
能に触れて沈黙の文芸だという。拍子を打つ音ではなく無音の間に注目する。ものを多く読み込まない。
絵にならない俳句
絵にならない俳句とは?元来俳句は子規の写生によって絵画的手法を取り入れたのではなかったのか。絵になる俳句は子規から蕪村を通して絵になる俳句を目指したが、虚子から芭蕉を通して見ると絵にならない俳句の系譜があるという。
鶏頭の十四五本もありぬべし 子規
これは虚子が評価しない句だったのだが、十四五本という数字が曖昧さの中に確かに景が見えてくる。それは多すぎることなく少なすぎない一本の鶏頭が見えてくるぎりぎりの塩梅の数だという。
春潮の漾 ふ藍ぞおそろしき 水原秋桜子
寄生木やしづかに移る火事の雲
先程の動画でも「おそろしき」という句があったが「おそろしき」は客観描写ではなく主観的なものだ。秋桜子は虚子の客観描写より内面的な主観描写を主張したのだが、虚子も内面を詠む句が多かった。これは混乱するよな。
大いなるものが過ぎて行く野分かな 高浜虚子
去年今年貫く棒の如きもの
「大いなるもの」と抽象的な言葉や「棒の如き」という比喩は内面を描いたもので客観的な絵にならない俳句である。
蝉の穴蝉の穴よりしづかなる 三橋敏雄
この「しづかなる」という形容動詞は主観性でこれは芭蕉の蝉の句をイメージしているのかもしれなかった。
閑さや岩にしみ入る蝉の声 松尾芭蕉
芭蕉の句も絵画的とは言えず絵にならない俳句独自の表現なのだ。
初潮や鳴門の浪の飛脚船 凡兆
凡兆はただの浪ではなくて「鳴門の浪」と強調することで、主観的な構成によって実景を描くのではなく脳内で北斎のような絵を描いた。堀切実は凡兆を「写生の演出家」と呼ぶ。
虚子はそうした操作を演出と捉え、素十の句に凡兆を見出した。
鰯雲はなやぐ月のあたりかな 高野素十
雪山の前の煙動かざる
「はなやぐ」や「動かざる」という言葉は主観による印象を詠んだ。
凡そ天下の去来程の小さき墓に参りけり 虚子
これは短歌なのか俳句なのかわからないが、虚子が去来を偉大な俳諧師と見ていた。
湖の水まさりけり五月雨 去来
尾頭のこゝろもともなき海鼠哉
湖の水量が変化するのは目に見えないのだが「五月雨」という季語によって「まさりけり」となる。「海鼠」も尾と頭が区別されないということはないのだが、曖昧性を詠んでみる。芭蕉にも海鼠の句があった。
いきながら一つに冰る海鼠哉 芭蕉
これらの句は虚子の言葉を借りれば愚鈍な句であるが、そこに「絵にならない俳句」の滑稽さを見出す。
病雁の夜さむに落ちて旅ね哉 芭蕉
この芭蕉の句は情景を描かず観念の句であり、「病雁」「夜寒」「旅」と尽きすぎなのだが、そこに芭蕉の人生訓のようなものが透けている。虚子はそうした人生をものに喩えた絵にならない俳句の独自性に気づいた。
風が吹く仏来給ふけはいあり 虚子
送火や母が心に幾仏
人生は陳腐なるかな走馬灯
最後の句などほとんど陳腐な走馬灯のような句なのだが、それが虚子が見据えた人生なのである(今ではこんな句は凡人句だろう)。
観念の俳句
虚子は観念の俳句を創るがそこに理屈っぽさを入れない。
人生は陳腐なるかな走馬灯 虚子
物指で脊 かくことも日短
動画に上がっていた波多野爽波の句も虚子の句の影響が見られる
巻尺を伸ばしてゆけば源五郎 波多野爽波
虚子の俳句は人間存在の観念を俳句で詠んだと三橋敏雄はいう。ただ観念は理屈になるので俳句としては危うく扱いにくい。そこで無意識的な観念を見出すのかもしれない。
焚火するわれも紅葉を一ト握り 虚子
焚火そだてゐたりしがたち歩み去る
ありのままの焚火を見て詠んだ句。
焚火のみして朽ち果つ徒に非ず 虚子
焚火かなし消えんとすれば育てられ
焚火そだてながら心は人を追ふ
これらは客観的事実ではないが、無意識的なものを焚火に託して詠んでいる。虚子の言う「客観写生」は主観の中にあるものを客観的に提示して見せるということだという(禅問答のようだけど無意識的というようなものか)。俳句スポーツ説は多作することによって無意識的なものに近づく俳句観なのかもしれない。
酌婦来る灯取虫より汚きが 虚子
この句は「酌婦来る」が虚子の無意識の現れだとおもうのだが、人間を善悪で測れない普遍的な観念を詠んでいるとするのだが。「酌婦」という言葉と「汚きが」という言葉の中に虚子の差別意識が透けて視えるような気がするのだ。言葉を扱う芸術家なら、そこはこだわるべきではと思う。