女性俳人は自己を詠みたかった
『女性俳句の世界 』上野ちさ子(岩波新書)
女性俳人に興味を持ったのは、杉田久女で松本清張『菊枕』を読んだからである(ラジオの朗読)。俳句よりもその人物的興味、虚子に認められたく虚子にラブレターを書いて虚子に破門されたという。そんなスキャンダラスの存在でしか女性俳人は読めないのか?という反省も少しあり、他の女性俳人を知りたくなった。
短歌ならば31文字で己の気持ちを読み込むことが出来るが俳句は17文字の短詩でそこに己の気持ちを入れ込むのは難しい。そして俳句の伝統は江戸時代の儒教的空気の中で育まれてきた。和歌の女流歌人が活躍した宮中の宴とは違うのである。
捨女の句は上手いな。けっこう名句らしい。
千代女の「落鮎」は産卵後の意味ではなく、産卵に向かう鮎であるという。水に向かって死に近づきつつ産卵を迎える生と死のエロスか?
「ほととぎす」の句は杉田久女に名句があったが、それの魁か?
「姥捨た」の句は姥捨山に登ったときの句。女芭蕉と言われたほどの旅の俳人だったようだ。女で一人旅は当時としては珍しいのだが、御家人らの俳諧グループが通行手形のようなものを出してくれたという。尼さんだったこともあり修業の一環としてというような。それにしても女の一人旅というのは凄い。
竹下しづの女の名句。「須可捨焉乎(すてちまおか)」。俳句同好の学生を指導しながら俳句作りに専念したという。漢文表現の口語体の鮮やかさ。ただここまで自己を出すことは当時はあまり歓迎されなかったようだ。今の時代だから名句に上げられる一句だろう。
杉田久女三十歳の句。竹下しづの女とは正反対のナルシスト女性俳人。そのことで虚子から破門されるが、スキャンダラスな男性視線の小説(松本清張)とは反対に田辺聖子の同名の小説では、その生き方を称賛されている。女性が家に収まっていなければならない時代に外に出て俳句の可能性を見出す。虚子は女性俳人の多くを育てたが杉田久女のような自己を表出する俳人は好まなかったようだ。
虚子が注目した女性俳人には4Tがいる。汀女、多佳子、立子、鷹女。汀女は杉田久女の影響を受けたが、後には4S(水原秋櫻子、山口誓子、阿波野青畝、高野素十)である山口誓子(せいし)に師事し虚子の「客観写生」から「写生構成」という方法を学んだ。掲載句にもその傾向が強い。その山口誓子の言葉に
明らかに山口誓子は女の女流作家を望んでいたであろう。杉田久女は男の道を望み潰されてしまった。そんな久女に憧れにも似た気持ちを持っていたのが橋本多佳子だという。
4Tの星野立子(虚子の娘)以外は短歌から入っているそうで、晩年になると自己が出てくるという。まあその先達か4Tではなく、杉田久女と竹下しづの女であったような気がするから晩年は自らをさらけ出すのであろう。その二人を虚子は認めたくなかったのかもしれない。
中村汀女はこまやかな日常諷詠にたけたが、掲載句の「湖(うみ)」は出身地の江津湖の「湖」の意味の「汀」ということだった。湖を見て育ったそのままを詠む俳人だったのだろう。「快く流れる言葉のリズム」で彼女の右に出るものはいないという。このへんはよくわからない。掲載句は六七五で読みにくいし。一七文字を守って季題を含むという理念は破られている。湖を「うみ」と読ませるのも自然じゃないようなその地方の独自さだろう。模範とも言える「多作多捨」の作家。
石橋秀野、「木犀」の句の「とほき」は「とほく」ではなく彼女の位置が「木犀」の位置にあるという。その彼岸(理念)性は折口信夫から学んだものだという。短歌から俳句へという女性俳人は以外に多い。すでに一六歳で俳句の理念について書き、早熟のまま病苦にさらさる日々であったという女性俳人。彼女の最後の殴り書きの句(辞世の句)。
で、俳壇の芥川賞といべき茅舎賞の第一回目の受賞者である。
細見綾子は茅舎賞第二回の受賞者で俳句がもはや男だけではないことを知らしめたという。彼女は季節自然を読んだの花や植物の句が多い。また最初に登場した捨女と同じ土地の出身であるという。その素直さなんだろうな。