シン・俳句レッスン130
風鈴
「風鈴」はこの季節、涼しさを演出する季語なので多くの俳句があった。涼しさにスポット当てるなら正岡子規か。
飯田蛇笏は風鈴のイメージを変える
好きなのは山頭火の句だ。
今朝の一句。
川柳だな。
昭和俳句
川名大『昭和俳句の検証』「昭和俳句表現史(戦前・戦中)」続き
「モダン都市の俳句」
新興俳句弾圧事件があり、「日本俳句作家協会」設立。「日本文学報告会」に統合されるが、「聖戦俳句」が並ぶ。
ただ敗戦後にGHQの検閲にあって句としてはあまり残っていないという。戦時の空白期の中、印象深い句も残っている。
敗戦後の新興俳句系の復活。
次世代の作家金子兜太の戦時句。
戦後俳句の検証
パウンドとカミングス
川本皓嗣『アメリカの詩を読む』でパウンドとカミングスが出てきたのだがふたりとも俳句から影響を受け、短詩の可能性を模索していくのだが、パウンドがイギリスに亡命して(それはアメリカのひどい仕打ちによるものなのだが)ある意味キリスト教的な保守主義に陥るモダニストとして、日本のモダニズム俳句と共通した思いを感じてしまう。それがモダニストが現在と古典の創造性を行き来しながら、結局は古典の神学性のような方向性へ飲み込まれてしまうように感じる。それはパウンドの弟子であるT.S.エリオットや日本の批評家の巨匠である小林秀雄にも繋がっていくと思うのだが古典文学を賛美するあまり、その保守主義にのめり込み他者であるノイズとも言える言葉を排除していく。それは言葉の美が究極的には完成されたものとしての死の表現に他ならないものとして、硬直性の中に閉じ込めてしまう美の観念が保守的な国家観念(一神教的な権力)と結びつくような気がする。そうしたモダニズムの読み替えをカミングスのような方法で、ポストモダンとして表現していくことに興味を惹かれていく。それは80年代のポストモダンという思想に触れていたからかもしれない。
地下鉄の顔の中に美を見出す立ち現れた(application)はフランス語でいうエピファニー(出現)はもとはキリスト教の公現祭ということだが、それを花びらの中に見出す。この花びらは桜だということは俳句の季語的な約束なのか?つまり現実の美を過去の美に見出す芸術的手法は、俳句や短歌ではお馴染みであり、またエズラ・パウンドは漢詩にも興味を示し漢字がそうした表意文字であること、これはエピファニーという言霊的な象徴性なのである。
もともと詩的言語は宗教的なエピファニーに美を見出す傾向にあり、それを推し進めると新古典主義のドグマになるのかと思う。
俳句の二物衝動という面からもこの詩は一方に桜の花びらが散る光景があり、一方に地下鉄という黄泉の場所から立ち上がってくる美の顔というエピファニーがあるのである。それは天使と言ってもいいかもしれない。実際にそういう天使的な女子はいるもんだ。ただエズラ・パウンドは後年この死のウェイトが重くなる。それは祖国のために戦死したものたちの詩になっているからだ。桜の花びらが散るイメージも死のイメージを醸し出す。
エズラ・パウンドがモダニズムの詩人ならE・E・カミングスはポストモダニズムの詩人だろうか?パウンドが自由詩と言っても前半部は弱強六歩格で後半は弱強四歩格というリズムの中に、また俳句の音韻に合わせて、シブラルも五七五に成っているという。漢詩が極めて定型が強いのもパウンド好みだとすると本質的なところで定型文に対する好みがあるのかもしれない。
それに比べるとE・E・カミングスは自由だった。むしろそうした文法のシンクタンクを嫌うように思える。なによりもカミングスが分解する多行詩に魅力を感じるのは言葉の流動性があるからだった。それは固定されないリズムかもしれない。
日本語でも意味は汲み取りやすいと思う。ハーメルンの笛吹き男よりは牧神ののパーンなのか?春がやってくる感じが心地よいリズムが舞うようで鮮やかである。「えでぃやびる」は固有名詞のエディとビルという少年の名前を連結させた造語だという。
NHK俳句
一物仕立ては、「写生」かなと思ってあまり作って来なかった。二物衝動の方が作りやすいということもあるのか。一物仕立ては「写生句」の極意のような気がする。
やはり一物仕立ての名句と言えば虚子になるのだろうか?この句が写生句だと思わせるのは、当たり前の白牡丹という白一色のイメージに紅ほのかを発見したところか?ただ実際にネットの写真などを見ると紅ほのかの白牡丹なんかでてないのだが、中島千波という画家の絵にはそのように描写されているから実際の牡丹を読んだのではなく絵を詠んだのかもしれない。このへんが虚子のずるい所のようで写生写生と言いながら自分はちゃっかり絵を描写する。これは『古今集』などの和歌が題詠で屏風絵から読むのと似ている。それは正岡子規の『古今集』批判とは反することなんだが、ちゃっかり虚子は逆のことをやっていたのだ。
この句の意外性は紅にあり、白に対する紅というイメージは対句的でもありイメージとしては二物衝動と言ってもいいかもしれない。
一物仕立ての極意として、通常の観察からもう一歩深く見ることで、凡人句からの脱出があるという。下五のダメ押しと言っていた。
イメージだが。
西山睦さんの題詠は虫だが、これは秋の虫で鳴く虫だろうか?一物仕立ての桃はいい例題だと思う。エッチな方向はバツだな。
高野ムツオさん「座る(坐る)・座す(坐す) 動詞 活用可」は今までにないパターンかな。季語でもないし、季語のセンスが問われるのか?
かまどうまはいとどの方がいいな。無人駅はNGワードだった。便所はいわなくてもいいかな。