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シン・俳句レッスン3

アップにすると返って暑苦しくなる氷の文字だった。

かき氷はためく風は熱風なり

風が重なる。

かき氷幟(のぼり)はためく涼風か

こっちだろうな。かき氷と涼風が重なるな。季題は涼風だよな。

涼風や幟(のぼり)はためくかき氷

西東三鬼


川名大『現代俳句』から「新興俳句の系譜」から西東三鬼。山口誓子の「天狼」に加わり新興俳句運動を展開するが「京大俳句」事件後に沈黙を余儀なくされて、後に有季定型俳句への転向があった。戦前と戦後では評価が別れる。

水枕ガバリと寒い海がある
算術の少年しのび泣けり夏
右の眼に大河左の眼に騎兵
兵隊がゆくまつ黒い汽車に乗り
占領地区の牡蠣を将軍に奉る
おそるべき君等の乳房夏来る
中年や独語おどろく冬の坂
広島や卵食ふ時口開く
枯蓮のうごく時きてみなうごく
露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す

「ガバリ」は最初はひらがなだった。カタカナの方が鋭さが出る。西東三鬼も「俳句は詩である」という認識に立っていた句。「寒い海」は肺結核による死の影の反映

「少年」は8歳の息子を詠んだ句。少年として客観視することで夏に哀れさが出る。また「算術」としたことで父親の視線が感じられる。

対句法を用いた斬新な文体と新鮮な構図。言葉の魔術師と言われた三鬼の面目躍如。

「戦火想望俳句」の熱心な実践者であったという。

「占領地区」も戦火想望句。中国で「牡蠣」を日本軍の将軍に奉るという句。「牡蠣」は女体のメタファー。エロティックなメタファーは三鬼が好んだという。

「おそるべき」の句は敗戦直後。句のイメージとは違いこの時に三鬼は45歳になっていた。戦後すぐに桂信子や鈴木しづ子などの女性俳人が性的な情念を詠んでいた。

これはまだ戦時だけど40過ぎで老いを感じていたわけだった。

広島を訪れた時の句だが句集『夜の桃』には入ってなかった。『夜の桃』という題名から想像してエロティクな句集だったのだろう。

中年や遠くみのれる夜の桃

「枯蓮の」は三鬼が転機となった句とする。有季定型の写生句を作り始める。

渡辺白泉

川名大『渡邊白泉の100句を読む』を借りてきたので再び白泉。

冷房へ華氏九十度の少女入る
赤き犬ゆきたる夏の日の怖れ
やはらかき海のからだはみだらなる
あげて踏む象の蹠(あうら)のまるき闇
臀肉が躍りゆき馬がをどりゆき
霜晴れの両手をふつていつた門
かぎりなく樹は倒るれど日はひとつ

「冷房」が都会的な夏の季語か。「華氏九十度」は摂氏32℃だから実際にはそんな少女はいないのだがイメージとして、都会のクールさみたいなものを醸しだしている。実数を入れても字余りだし、面白くないというような。華氏表記はわからないけど、トリュフォーの映画で『華氏451』があった。あれも適当な数字だったのだ。この暑さは華氏100度参りだ。

白泉は「赤」に戦争の近づく色を感じていたという。白泉という名前との対象なのか?俳句に色を詠み込むというのをやってみたい。というか「赤」はなかなか詠めないな。信号ぐらいか?サイレンとか。小津の赤というのがあるな。朱だけど。

「帆」という雑誌に掲載された五連句の中の三句目。他の句が海で泳ぐ様子を句にしているのに、この句は海そのものについて述べている。海の中にある母の文字の身体に喩えてそのエロさだろうか。海に漂う水着を着たものたちなのか?海をエロく詠んだのは白泉が始めてだという。それも驚きだ。

これも五連句の中の一句だという。「蹠(あらう)」が難しい。「あしうら」のことだった。それが分かれば意味が汲み取れ得る。サーカスの出し物で美女が象に踏まれるシーンだろうか?「京大俳句弾圧事件」後に古俳句の研究をしていたという。その時の句だそうだ。「蹠(あらう)」の漢字もそういうところが出処なのかもしれない。音数「3-2/ 3-4/3-2」という面白い視点だ。

これもサーカス四連句の中の一句。俳句でも一句でそのものを表すというより、そうした連句によって大きなテーマを表そうとした試みだろうか?ここでは曲芸をするサーカスの馬の連句だった。「躍りゆき」と「をどりゆき」のリフレイン。最初は馬の身体の写生であり、その後のをどりは「踊り」というトロットの様子だという。

「霜晴の」句も連句として創作されたので、この一句だけでは意味が掴めないだろう。

次の「樹」の句も「伐採」という五連句の一つだった。

森の陽の魂麗なるにひとまぎれ
のこぎりと斧と葉片びつしりと
かぎりなく樹は倒るれど日はひとつ
谺よりさびしきものはひとの鼻か
ひとら去り日も去り谺樹にのこる

同様の光景を高柳重信は多行表記で詠んでいるという。

樹々ら
いま
切株となる
谺かな   高柳重信

カッコいいじゃないか?

「シン・俳句レッスン」はどこで止めたらいいのかスタイルが出来てないのだった。結果を求められる場がないからか?
そう思ったら実行に移すがよろしい。今日は旬杯に出すというテーマ。

季語と季題

それで岸本尚毅『俳句のギモンに答えます』から、「季語と季題」についてのレッスン。

「季題」は主体となる季語のことで、季重なりもそれを意識していれば問題ないという。

露の幹静かに蝉の歩き居り  高浜虚子
しぐれつつ留守守る神の銀杏かな  高浜虚子

最初の句は「露」が季題で秋。蝉は秋の気配を演出しているのである。
次の句は「時雨」が季題ではなく、「神の留守」だという(陰暦十月は神無月)。難しいな。もう季語なんてどうでもいいように思える。「これが季題だ、それもわからんのか!ボケ」と言っておけば良くないか?意外に虚子は季重なりの句が多い。

秋天の下に野菊の花弁欠く  高浜虚子
秋風にふえてはへるや法師蝉  高浜虚子
鶯や洞然として昼霞  高浜虚子
学僧に梅の月あり猫の恋  高浜虚子

最後なんて「梅」に「月」に「猫の恋」だぜ。まあ「猫の恋」が季題というのだろうが。こんな句を投稿したら即いちゃもんが付きそうだけど。植物は季語が定められているが、季重なりでも背景として読みたいこともある。

五六丈滝冴返る月夜かな  大島蓼太

この句はどれが季題でしょう?「滝」(夏の季語)でもなく月(秋の季語)でもなく、「冴返る」という春の季語だという。早春の寒さがやわらいだ後に、また寒さがぶり返すことだという。これは目前の写生が出来ているので問題ないとするのだが。

季語の本意を知ること。その季語である意味性によって、例えば七夕なら夏の行事ではなく織姫と彦星の出会いと別れが読まれるべきなのは秋の風物詩としてフィクション性があるという。

応募要領は「夏っぽい句」ということで、最近詠んだ句から選ぶ。

カナヘビや真名には成れぬ猛暑かな

猛暑より酷暑の方がいいような。蜥蜴に蛇に成れというのも無理な話なんで。

アル中の立ち飲み酒屋夏の果て

これはこのままでいいかな?

川蜻蛉激流のなか雫落ち

「カワトンボ」と表記もあるかな。でも漢字の情緒性か?「激流のなか雫落ち」がいまいちわかりにくい。鉄砲水にするとカワトンボの方がいいか?

カワトンボ鉄砲水に飛び立ちて

やっぱ季重なりは避けるべきか?

川蜻蛉濁流のなか飛び立ちて


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