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シン・俳句レッスン151


美術館

美術館は季語としてなかったが「美術展覧会」で秋の季語だという。もうこれだけで字余りじゃないか?誰がこんな馬鹿なことを決めているんだろう。展覧会か美術館でいいじゃないか?秋の美術という季語もあった。

しゅるしゅるとシュルレアリスム美術館 宿仮

昔、シュルレアリスムが呼びにくいのでシュルシュルと言っていた女の子がいました。惚れた。

蛇娘しゅるしゅると女神様 宿仮

明治大正俳句史

『観賞現代俳句全集』からのつづき。村山古郷『明治大正俳句史』。

明治になって、江戸俳諧師の立場は弱くなり、宗匠(俳諧の師匠)は添削を有料にして指導したり、景品を出したりしてしのいだ。芭蕉のような俳人は希少だった(全国に弟子がいるようなもんだから)。宗匠(俳句の師匠)の番付があったりして、それが西鶴の矢数俳諧(一日で千句作るとか)とか出てきたようだ。俳諧師は新興宗教の教祖みたいな存在だったようだ。まあ、この時代に俳諧が月並み俳句となっていくのは理解できないことではない。さらに当時俳諧師は僧侶なども多く、明治政府が正しい生活みたいな御触れを出して、教育の一貫とした。皇国教化のために僧侶が多い俳諧師が利用されたという。しかし俳諧師でもともと反権力で立場が保てない人や教育的なものではない人も多くいたという。それが明治の俳壇の流れだったのである。

(皇国国体)出づるより先ずさす国や初日の出 芹舎

ただ教化的な宗匠は保守的な思考の持ち主が多く、それに不満を持つ正岡子規らの新俳句が勢力を伸ばしていく。新俳句側から月並み俳句の烙印を押された宗匠にも佳句はあるという。

鳴く雉子にふりむく雉子や草の中 月の本為山

月並み俳句

恋といふ曲物さりて雪寒し 雪中庵雀志

庶民に人気があったのは月並み俳句のほうであるのだが(俳諧味がある)、そしてそのような俳句本が隆盛を極めて、正岡子規の新俳句と対立していくのだった。

やがて教化的な宗匠とそれとは別の宗匠の二派にわかれるのだが、子規は教化的な性格だったが、保守的な宗匠とは相いれずに新俳句を起こす。それが子規と尾崎紅葉なのだが、教化的な子規俳句が明治俳壇をリードしていく(子規は旧家の伝統俳句を学んでそこに写生という改革運動を起こしていく。もともとは国家主義的な人)。そして子規と紅葉を失うと虚子の「ホトトギス」の時代になって行った。

かたまりて菫さきけり草の中 虚子

秋雨の庭に灯ともして眺めけり 尾崎紅葉

「ほととぎす」の雑詠欄に集まった俳人は多彩極めて彼らが中心となっていく。

「昭和俳句」は川名大なので今回はパス。

切れ字論

川本皓嗣『俳諧の詩学』から。著者はアメリカ文学(詩)と日本の俳句を比較して批評的エッセイを書いているのだが、季語になりたちとかは面白かったが、同じような本を読んでいた。

それで「切れ字」論である。江戸時代の俳諧の連歌では発句は切れ字がなければいけないという指南書があり、最近の俳人は忘れているがそれが俳句の俳句たる所以であるというような。一度「切れ字」論として出した本の不備を指摘されて新「切れ字」論として展開しているのだが、そうしたセオリーは伝統俳句側の論理を強化するだけなので、どうかと思った。その批判に仁平勝のそういうセオリー化はマンネリズムを生み出す契機となって俳句を発展させないという意見があった。

現に川柳では切れ字の制約は無かった。まあ俳句と川柳を区分けするもんだと思えばいいのかもしれないが、そういう境界を設けることによって新しい試みがなされなく停滞していくのである。

なによりも文学は 生物 なまものであるから文法的な枠組みとかに縛られないのである。それは古典としてもはや硬直した死体の幻想として、たとえばすでに滅びの姿で幽霊のように存在させるかだと思う。そのへんの美的価値は個人によって違う。

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