『俳句 2024年3月号』を読む。
『俳句 2024年3月号』
巻頭作品50 池田澄子
『俳句 2024年3月号』「池田澄子50句」から。「昭和俳句」でも50句競作という新しい試みがあった。それは俳句を定形だけの文芸ではなく、芸術作品であるような文学を目指したものではないのか?池田澄子「春は花」は、春の句50句なのだろうか?
口語俳句だが自然詠の虚子を意識した本歌取りは伝統回帰なのか?
霙が冬の季語の社会詠俳句か。
連句の力か?桜は当たり前のように詠まれるが。
最後の句は一年が過ぎてまた桜を咲くのを待ち願う気持ちの句だった。この方法がいいのかな。日記のように俳句を詠む連句という技だった。
吟行がてら毎日の散歩は欠かさずにという感じか。見習わなければ。
これは漢字だけの俳句だった。
俳句の省略
西村麒麟選「省略の効いた名句50句」より。論理はわかりにくいので実践的に省略の効いた名句50句を読んでいく。
吹雪が季語に詠嘆のかなは切れ字。山寺の仁王たじろぐような吹雪の意味で直喩かな。山寺の仁王と吹雪を対になっていて「たじろぐ」で繋いでいると見ればいいのか?僧ではなく仁王を詠んだことがポイントだという。
省略は俗っぽさを排除せよということなのかもしれない。
意味のわからない句だが、山上憶良が鹿顔でそれを見たという俳句だという。句跨りなのだが、鹿顔とまとめたほうがわかりやすいかな。「懐かしい」が省略されているのだそうだ。「山上憶良鹿顔懐かしき」でいいんじゃね。ぶつ切りに感じるのなら「山上憶良の鹿顔懐かしき」で字余りだが、「やまのうえの」が字余りだし、「の」のリフレインは音韻的にいい。伸び切った顔も鹿顔のようだし。
福笑いの情景の句。何が省略されているのだろうか?それがわからん。笑いか?「福笑い大いなる手に笑い抑えられ」とかの意味なのかな。笑いが重なるから、カットしたのか?
特集 昭和の俳句
川名大『昭和史俳句』のインタビューが掲載されていたが、俳人協会と現代俳句協会の分裂は角川に責任の一端があるのだが、この本が角川から出ていたのか?ちょっと、盲点だった。それで「昭和俳句」のベストのような企画があったのだが、新興俳句があまり出てこないな。渡邉白泉は出しにくいとして、富澤赤黄男とか高柳重信とかがないのは痛い。そのへんは俳人が意識したとか?角川の枠があるとか?自己検閲という奴か?俳人協会の人が多いとか?いろいろ勘ぐってしまう。それだと川名大の主張通りになってしまうのだが。「前衛俳句~昭和の終焉」というサブタイトルがあった。
ただこの本はシリーズ化されていて、以後は伝統俳句系になる模様。
桜の満開を言っているのだが、もっと代わりの言葉があるような気がする。こぼるゝは梅のほうがいいのじゃないのか?下句は否定の詠嘆。「も」という助詞。「も」~否定形はなんかあったな。自己を投影しているから「も」なのか?いまが絶頂だと。
ただごと俳句のような気がするけど自由が一番という俳句なのだそうだ。オヤジの前ではそうは出来ないのかな?
よくわからん。耳塚というのは戦国時代とか負けた武士の耳とか切り取ったものを弔ったものだが、師走の風が冷たく寂しい様子をひろびろという言葉で描いているという。言葉が足りなくてよくわからんよな。
兜虫の威風堂々とした姿を端的に表現しているという。
これもわかりにくい句だった。正月の羽子板が汚れているけど美しいということのようだ。だから何?だよな。そうか汚れが美しいのではなく思い出が美しいということだった。言葉足らずだよな。それに羽子は板ではなくて羽根のほうだぞ。省略し過ぎだよな。
これはいい句かな。ただごと俳句に近いけど、妻の強さが出ている。夫婦の関係が良好なんて言っている。違うだろう。妻に文句を言いたいのだろう。
これもそれがどうしたのただこと俳句だよな。関東大震災時の東京市長の句だそうだ。足らないのは言葉も足らなかった。
端居は端っこに座っていること。季語がないようだが「稽古」か。「稽古始め」で新年。
これはわかりやすくて面白い。
橋本多佳子に似たような祇園囃子の句があった。
両方とも響き渡る(聞こえる)という言葉が省略されて、映画の一コマのような場面なのが共通しているのか?
「しづかにしづかに」の動作が無音の小さき者を表しているとか。単にリフレインの巧妙ではないのか?
十月じゃいけないのか?と思うが師走の近さなのかな。十二月一月と寒さに向かっていく、未来も感じさせるという。
白居易の俳句みたいな感じだ。優雅さはあるな。初めての俳人。山口誓子の妹で芸者だという。
写生句。それがどうした句だけど。蜜柑が季語で聖性かな。蜜柑の匂いが立ち込める。酸っぱい蜜柑なのかもしれない。この人も初めての俳人。この人も實花と同じ芸者俳人仲間。
大晦日の夜の月に雲がかかって残念に思う気持ちだという。雲がかかった月もけっこういいと思うがな。それを「よごれ(煩悩)」と排除する除夜の鐘が許せん!原石鼎と相性が悪いのは予想がつく。
[座談会]高野ムツオ・西村和子・野崎海芋・西村麒麟
「昭和俳句が残してきたもの、乗り越えるべきもの」から。
昭和25年の新年(敗戦の年の次の年です)に読んだ新年の抱負というより虚子の俳句道のようなスローガンなんだろう。標語と言ってもいいかもしれない。男根かよと思ってしまう。言霊性というか、本来日本の歌言葉はそのようなスローガン的なものがあったとか。「第二芸術論」とか俳句が翼賛体制になったことなど、これっぽちも反省しない姿勢が俳句道を見極めた虚子ならではとか。少しはお前反省しろよなとも言いたくなるが。
こちらは波郷の昭和二十年の大晦日の句だという。戦時真只中。現在のウクライナやガザにも通用する句だという。虚子の句はロシア側やイスラエル側の句だよな。
これも昭和二十一年だったのか。女性解放運動の頃かと思っていたが違った。戦時だと月ぐらいしか雅なものが無かったとか。
よくわからん。戦争の比喩みたいなんだが、蜈蚣がよくわからん。漢字も読めんし。作者の名前がまずわからなかった。
三橋敏雄が入った。東京大空襲の句。無季だけど戦争という事件が季語性を持った句なのだ。無季の俳句の代表的な句だという。そうか?白泉とかあるだろう。定形だからいいという。
原爆の惨禍がその行為に象徴されるという高野ムツオの意見だが、当時は安易に広島を詠んでいいのかと言われたのだ。
これはあまりにも悲惨すぎた状況を象徴的に詠んだ句だという。これも無季だ。無季=戦争という概念が出来ているのかな。
境涯俳句なのか。老人の俳句の淡々とした様子を湯豆腐に喩えているのだろうか?
石田波郷が一番人気があるということで全員から選ばれている俳人だった。
野崎海芋は初めて知る俳人だった。
石田波郷は人間探求派といわれるだけあって生死に関わる重い句が多いな。俳諧味とは違うような。いいんだけどこのへんは精神とか言いそうで。
自然派だと龍太が二人から選ばれている。オヤジより多いのか?
西村和子はオヤジも選んでいた。
息子を4人のうち3人を亡くしていたという。それで残ったのが龍太だったのか。そう思うと龍太も蛇笏の息子としての苦労が伺える。
加藤楸邨も二人から選ばれている重要俳人か。
こうして見るとやはり戦争句が多いのか。
女性俳人だと、桂信子が二人から選ばれている。
身体的な句だが西村和子選は意志を感じさせ、高野ムツオ選はエロスを感じさせる。
津田清子という俳人は馴染がなかった。これも戦時の句かな。違った。生け花の句のようだ。
昭和俳句は戦争のイメージだったな。非日常の句が強い。
合評鼎談(辻村麻乃X抜井諒一X横澤放川)
合評は現代俳句の動向を知る事ができるので面白いかもしれない。年代もベテラン、中堅、若手と三者三様なので。
三村純也「伊勢・丹波・吉備」
俳句雑誌は一句だけで評価するのではなく連句で読ませるということになっているのだ。プロとアマチュアの差は連句が読めるかどうかなのかもしれない。そのテーマとして「伊勢・丹波・吉備」というタイトルを見るとその古典的観光地の句だろうかと思うのだが。旅吟であるが、さすが観光地は詠まずに土地柄を詠んでいるのか。写生句のようだ。一番は「茸採」の句だとか。
井上弘美「南蛮酒」
似たような古典の観光地(芭蕉が詠んだ観光地)の句だが、こっちは観光地俳句のような気がする。こういうのは芭蕉が好きなひとはなるほどと思うのかもしれないが、芭蕉に興味がない人は意味を汲み取れないだろう。
朝妻力「亡き人のユニフォーム」
阪神タイガースにいた横田慎太郎という選手の追悼句のような。熱烈な阪神ファンなんだろう。
野球俳句だけではなく、一般的な秋の季節の俳句もあるが、それは作者の心情に沿ったものだろうか?
佐怒賀直美「広島」
旅吟が多いな。非日常だからか?広島だから当然「原爆」が出てくる。まあ、広島に行ったら誰もが「原爆」を読まずにいられないのかもしれない。紀行文的な俳句だろうか?
照井翠「呪いの棺」
戦争時事詠だった。現代では難しいテーマのようだ。当事者でないと、数多い時事詠に埋もれてしまう。まあ、ウクライナ人が詠んだ俳句にはなかなか敵わないと思うが、それでも詠みたいと思う意欲かな。
遠山陽子「未完の自画像」
いちばん読みたくないテーマかもしれない。そう言えば今月号に石田波郷の「俳句は私小説だ」が出ていた。それに反抗したのが藤田湘子であったという。俳句の想像力だった。
第69回角川俳句賞受賞第一作という野崎海芋「月山」。期待の新人だったのか?
読みづらい。難解俳句だな。どう読んでいいかわからん。意味は筍が御椀からはみ出るほどの朝餉に感動しているのだが、月山との取り合わせということはそれがおかずなのか?窓から月山が見えるとか。
観光地俳句なんだろうな。観光地俳句ばっかかよみたいな。そういえば、堀切実『「俳句」と「日常」』であえて旅するのではなく日常的な吟行するような俳句がいいとか書いてあった。でもそれが私小説的になってしまうのか?だから非日常を求める。そのへんだよな。日常詠なんだけど非日常のような世界観(想像力)なんだと思う。