シン・俳句レッスン13
今日の一句
階段に散らばる蝉の羽。本体はない。成仏できたのかな?と考えてしまうのはお盆シーズンだからか?
そのまま。お盆を読みたかったのだが。天国の階段をイメージ。
篠原鳳作
新興俳句の牽引者であり、白泉、三鬼、赤黄男、小澤青柚子らは結社の垣根を超えて文学的に結ばれていたという。新興俳句の父が山口誓子だとすれば、その兄貴分的存在が高屋窓秋であった。高屋窓秋から詩的影響を受けた句が「しんしんと」の碧の句。
鳳作は鹿児島出身だが沖縄に渡ってから自己の俳句を確立したとういう。台湾や沖縄の熱帯地方は四季の季節感が乏しい。東京で俳句を学び、鹿児島に戻って、沖縄に渡っていく中で彼が見出したのは無季俳句であった。
「ガチヤガチヤの」とはなんだろう?「しんしんと」のような修飾語なのか?クリスマスの飾りつけとか。なんとなくそんな感じである。
「炎帝」は「太陽神」の下での「メロン作り」
「青東風」東風(こち)よりさらに東の青からという感じか?「マンゴー」は宮古島の名物。
「カヌー皆」は青い海の向こうからカヌーに乗った若者が一斉に湧き出てくる感じか?
鳳作の句作のモットーは、
「ハタハタ」「トマトー」「向日葵」「月光」と沖縄の自然を詠んで開眼した鳳作だが、東京大学在籍時には都市の労働者を詠んでいた。都市生活者の「高層建築のうた」の連作は山口誓子の影響を受けたものだった。
生き抜くための俳句塾
北大路翼『生き抜くための俳句塾』を借りてきたので、今日はその講義から。北大路翼の最初の本であった。
俳人になるための10箇条
1、は「飲む打つ買う」という道楽だった。酒は飲まなし、博打もしないし、女を買こともない。道楽に縁がなかった。この道楽というのは「道」に繋がるということだ。それは俳句が遊びであるということ。大人の遊び。種田山頭火に憧れたというのが可笑しい。
種田山頭火については、坪内稔典の説が説得力があるんだよな。それは山頭火のような人生を送れる者は、もう俳句なんて必要なくただ生きて行けばいいと思ってしまう。逆に保守的な精神性なんで弟子がいない。女性で山頭火のような俳人が出て来ないのが、駄目なんじゃないかと。ただ芭蕉からの漂泊の俳人という系統はあるんだよな。それを目指せるか?ということなんだと思う。
2、は学ぶことの必要性。それは思うからこんなことをやっている。ただ何がいいのか素人にはわからないものだ。そのことで師匠がいるというのは楽なことなのかもしれない。ただここでは俳句意外の表現に触れろとも言っている。そうなんだよな、俳句だけ上手くてもと思う。胃の中の蛙だよな。また誤字だ。「胃」は「井」だった。
3、は言えているかな。謙虚なんだけど頑固とか。人間もともと傲慢な生き物だ。反省はするなというけど、時には反省も必要だよな。さっさと滅んでしまえばいいとは思う。依存症を愛するというのがちょっと出来ない。愛の欠如。ニヒリストすぎるのか?
4、含蓄が読めなかった。
ここがわかりやすい説明だった。俳句の含蓄というような奥深いことだ。蘊蓄とは違うという。俳句は抵抗の詩であるという。そこはその通りであるから、俳句の王道に抵抗したい。当面の敵は虚子だ。怒りの表現を抑えるということはあるかもしれない。それを諧謔性に変えてみる。
5、一番共感したのがこの部分かもしれない。クーラーなしでこの猛暑を過ごすのだ。大体この猛暑は人間のせいだとは思わないのかね。人間が暑い暑いとクーラー使うから地球が温暖化してるんじゃないか?この責任誰が取るんだ。それでいて冷房を使わない年寄を苛める。彼らはそれなりに覚悟はしていると思うよ。むしろ間違っているのはお前らの方だろう。
6、もそうかもしれない。メディアを信じている人なんているのね。まあ、だからこの日本が変わらないのか。クソNHKだと思う。俺の俳句の投稿をちっとも取らない。個人的な恨みもあるかも。NHK俳句に載るほうがクソだと思うようになってしまった。ただ仲間がいないのは辛い。言葉で殺し合いをしているのだは大袈裟だけどな。
7、はそれが歯の神経を抜くこととどう関係しているのかわからない。ただ人間は刺激を求める動物だとは言えるかも。欲望だよな。ばんばん批判されろというがそういう場所にいなかった。
8、はそうだと思うが持たざる者と恵まれている者の違いだよなと思う。
9、も季語というものはそういうものだと思うのだが、俳句界は変化を楽しまないよな。
10、もよくわからない。日本人は勤勉すぎるというがそうかな?学ばない種族なんじゃないかと最近は思う。自分で考えろということだよな。逆説を言っているのだった。俳句は逆説。一度決めたらとことん狂えということらしい。
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