シン・俳句レッスン132
朝顔
「朝顔」もこれは外来種でアメリカアサガオで帰化アサガオ駆除の対象となっていた。
最近はこのように生きている。帰化植物を愛でるというのもなんだが。行分け俳句にすることで、音韻を変えようと思っているのだが五七五の定型からは抜け出せない。
こうすれば五七五は変えられたかな。八九の定型。
朝顔の名句。秋の季語なんだが、季語はどうでもいいな。夏朝顔とするのも鬱陶しいし。
「恙(つつが)なき」がポイントか?こういう言葉は今は使わないものな。今だとどうなんというのかな。平々凡々かな?平凡か?
日野草城に似たような句があった。凡人か?
昭和俳句
「京大俳句事件」
川名大『昭和俳句の検証』「平田青馬は特高のスパイだったのか」から。
平田青馬特高スパイ説はの出どころは西東三鬼であるようなのだが、それは特高の取調官からの又聞きであり確証あるものではなかった。仮にその通りだとしても自ら進んでスパイになったのかどうかもわからず、脅迫されたのかもしれなかった。
平田青馬の書簡には、当時スパイと噂されているからそれを否定してくれるように同人宛に出した手紙がある。それによると関西方面への天皇の行幸があり、京大や関西言論界に対しての風当たりが強かったのが伺われる。京大俳句の弾圧もそれ故ではないかという正しい判断を下している。
三橋鷹女の「年譜」の書き換え
なかなかわかりにくい批評なのだが、三橋鷹女が東鷹女と名乗っていた時期を意図的に外しているのではないかということなのか?
それまでの三橋鷹女は戦争寡婦としてのイメージであり、東鷹女時代は夫の姓を名乗りながら、小野蕪子主催の「鶏頭陣」での活躍、この時代の俳号を東鷹女とした理由を探っているようだ。鷹女は関東大震災時に建物の下敷きになり我が子を抱き続けて耐えていたという逸話があり、それが強烈に母性愛のドラマとして際立ってくるのだが、その以前にの夫の崩壊した(関東大震災ではなく経済的な理由で)医院を再建のために結婚したという。その頃の奮闘ぶりが
それはあたかも俳句にかける情熱と二月の渚を感じる俳句ではあるが、それは実景ではなく、映画の一コマだったことが次の句からわかるという。
つまり鷹女の中にあるナルシズムは実景とは違っているイメージなのであった。この頃に泊まった旅館が鈴木真砂女の実家で、川名大の故郷なのだという。
鷹女というと一人の強い女性をイメージしてしまうが、その側には夫が常にいて、一人息子の出征を共に見送っていた。さらに鷹女が指導した「ゆさわり会」が戦時とされたのを戦後の記憶違いとしている。つまり戦時下の鷹女の経歴を戦後の鷹女の経歴に書き換えているということなのだ。それは東鷹女と名乗っていた時代なのかもしれない。
鈴木真砂女の海の叙情性と飯島晴子の創作過程のエッセイは、俳句は個人の感情の発露から成り立つものであるという。
富澤赤黄男の俳句日記
富澤赤黄男が戦時下に残した日記から「俳句は詩である」という宣言と当時の新興俳句仲間たちの交流の姿や俳句の創作過程の格闘などが知れて面白い。この項だけでも、読む価値があると思える。当時は詩も書いており、詩から俳句に仕立てるという作業もしていた。その時の一句。
富澤赤黄男の俳句はセンチメンタルな感情の発露だった。ただそこに表現の誤魔化し(すり寄り)はないという。花鳥諷詠(ホトトギス)派に対する反抗。
富澤赤黄男と篠原鳳作との関係。篠原鳳作の俳句は無季俳句で詩情溢れる俳句だった。