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秀句を選ぶ人の枠外は凡句?

『俳句 2024年5月号』

◆大特集 秀句と凡句の違い
[総論]奥坂まや
[各論]大谷弘至・橋本 直・対中いずみ・仲 寒蝉・稲畑廣太郎・西村麒麟・山田佳乃・田中春生・和田華凜・佐藤文香・今瀬一博

◆日本の俳人100 荻原都美子句集『至恩』

◆第18回 角川全国俳句大賞

■巻頭作品50句 小澤 實
■作品21句 岩淵喜代子・星野高士

■グラビア
今月の季語 遠藤由樹子
日本の鳥たち 大橋弘一
結社歳時記
俳壇ヘッドライン

■作品
[16句]石 寒太・戸恒東人・藺草慶子
[8句]前川弘明・栗田やすし・深沢暁子・酒井弘司・内海良太・福井隆子
[12句]池内けい吾・波戸岡 旭・大木孝子・小杉伸一路・鈴木章和・津高里永子・才野 洋・ドゥーグル・J・リンズィー
[クローズアップ(7句)]河村正浩・橋本小たか・篠崎央子・岡田一実・矢口 晃・音羽紅子・小林鮎美・横井来季
[俳人スポットライト]安田のぶ子・倉田明彦・西川東久・小口幸子

■好評連載
○虚子の遺産……井上泰至
○近代俳人列伝……岩井英雅
○小林秀雄の眼と俳句……青木亮人
○妄想俳画……田島ハル
○俳句の水脈・血脈……角谷昌子
○昭和の遠景……須藤 功
○俳句の中の虫……奥本大三郎
○現代俳句時評……岡田由季
○蛇笏賞の歴史……坂口昌弘
○「俳句」と「日常」……堀切 実
○合評鼎談……横澤放川・辻村麻乃・抜井諒一

■読者投稿欄
令和俳壇[題詠]夏井いつき
令和俳壇[雑詠]白岩敏秀・櫂 未知子・白濱一羊・成田一子・山田閏子・森田純一郎・星野高士・井上康明・五十嵐秀彦・小林貴子

秀句と凡句の違い

『俳句 2024年5月号』から「大特集 秀句と凡句の違い」。特集が気になって借りたのだがまったく理解出来ないでいる。説明の仕方がよくわからない。

最初に「技法のみあらず」ということで、直感的な感性論みたいなことを言うのだが、そこがわからないから違いを知りたいのである。だいたい精神論じみたことを書いている。やっぱ知りたいのは技術論なのである。

「虚実」とか「余白」とかわかるようでわからない。それはどこを「虚実」と感じたり「余白」と感じるかということなんだが、「虚実」は実が必要だぐらいで「余白」は素直に読めということなんだと思う。そこに自然と「虚実」も「余白」も生まれてくるというような。

感情論で心の感動を読めばいいとしながらも、そこに秀句と凡句の違いがあるのである。それは技術論だと思うのだが、そこを詳しく説明出来ない。中には呼吸だと言い出す人も。お前はどんな呼吸をしているんだと言いたくなる。二物衝動は切れだから呼吸とは違う感じがするのだが、呼吸という場合はやっぱ一物仕立てなんだろうと思う。もう二物衝動でやることに決めたので一物仕立てはないと思う。単語登録もしてないので漢字も出てこない。

『角川 俳句』はやたらと心とか精神論が多い。それだけで違った人種なのかもしれないと思ってしまう。

虚子の遺産……井上泰至

『俳句 2024年5月号』から井上泰至「虚子の遺産……」。虚子は俳句よりも小説を書きたかったのだが子規の指名で「ホトトギス」の編集をしなければならなかった。それでも小説を諦めきれず漱石の小説が掲載されたことからも小説のほうが文学的価値が高いと思っていた。さらに俳句のひらめきでは碧梧桐の才能にかなわないと思っていたのだが子規の説得によって写生句が出来るのは自分かもしれないと思い「ホトトギス」を引き受けた。その中で「雑詠」欄が話題になり、様々な俳人を生み出した。その俳人たちも虚子の俳句から離れていくが、虚子は自身が考える俳句を押し通した。それが現在まで続いている。

近代俳人列伝 4Sの活躍 水原秋桜子

4Sと言われる俳人たちも虚子の「ホトトギス」で育った俳人である。その中で秋櫻子は虚子の有季定型の客観写生に対して心(イメージ)を描くことも写生だとした。

葛飾や桃の籬も水田べり 水原秋桜子

『葛飾』

植物を連句として読み、ここでは桃の花を連想させていく「も」の使い方なのだ。

梨咲くと葛飾の野はとの曇り 水原秋桜子
万葉の古江の春や猫柳
しろじろと遅き梅あり藪の中
連翹や真間の里びと垣を結ばず
連翹や手古奈が汲みしこの井筒
葛飾や桃の籬も水田べり

『葛飾』

春の情景を連続させて一連の流れとしてのテーマ詠なのだ。ここでの「桃」は季語の花としての桃をイメージしている。そして田園の明るい情景だけでなく暗さも描いて見せる

啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 水原秋桜子

『葛飾』

春惜むおん姿こそとこしなべ 水原秋桜子

『葛飾』

『葛飾』の終わりに配列された七首の「古き芸術を読む」と題された中の一つで「百済観音」の前書きがある。そこに百済観音の心情さえも詠んで見せるのだ。これは秋桜子が和辻哲郎『古都巡礼』に感動して、休日の大和行きとなった作品だという。

奥本大三郎「俳句の中の虫 幼虫」

匂うなり蝶にならんと角を出し 池田澄子

山椒にいるアゲハチョウの幼虫なのだが、最初は鳥のフンに似せて白い幼虫なのだが、成長するに従って色の付いた芋虫になっていく。それで鳥とかに狙われやすのだが、刺激を感じると触覚と共に臭い匂いを発する(その匂いから「ゆずぼう」と呼んだりもするそうだ)。それは柑橘系の匂いがするのだということなのだが。確認したことはなかった。
実家には山椒もあって、確かにアゲハの幼虫とかいたけど見過ごしていたと思った。あの頃は芋虫にも興味はなかった。
それで『俳句 2024年5月号』の合同批評で池田澄子の「春は花」の句評がでていたのだが、自分的にはあまり好意的には読めなかったのだが池田澄子の作家性が出ていたとか。

合評鼎談……横澤放川・辻村麻乃・抜井諒一(池田澄子「春は花」)

池田澄子「春は花」の答え合わせ。

雨は霙に新種のウイルスに変種

社会詠ということで取ったが対句の音韻があるとは思わなかった。「種」と助詞「に」だろうか?そんなに練られた句なのかな?そっか「雨は 霙 みぞれ」と切っても良かったんだな。でも「に」の助詞が入ることによって俳句の切れはなくなるが。外在律は、五七五定型ではなく七九三変種だけど内在律がリズムになっているのか?

龍の玉むかしのことは覚えている

連句の良さと読んだのだが前後がはっきりしない。「龍の玉」はラビスラズリ色で昔も印象的だったのかもしれない。それが悠久の太古の 勾玉まがたま まで連想されている。高岡修鹿児島協会長が主張していたことだ。そっか池田澄子も新興俳句派だった。俳句よりも詩として読む。

随分と生きてやっぱり春は花

表題句だけど花=桜という意味も含んでいるのだろな。それじゃなければ虫でもいいわけだし。

しらじらと明け切々と花筏

これは桜の連句が出てくるのだ。桜は死生観を感じさせる花だった。この花筏も三途の川を流れていくイメージか?「切々と」を「きれぎれと」と読んでいるが、これは「せつせつと」だろう。切れたら筏にならん!「しらじらとあけせつせつとはないかだ」で流れていくのに、「 切々 きれぎれと」と読んで、「きれぎれなり」が正しいというアホは誰だ。

川は河へ泥をいざない花月夜

これも桜の連句的な句で、「花月夜」が天に上っていくようで美しい。「河」は銀河(天の河)かもしれない。

蟻よ御免ネこれ「アリ全滅シャワー液」

これ面白い。花の句だから虫はいらないと全滅させる(桜吹雪の)お澄であった(NHK俳句で「お澄」と呼ばれているとか)。

冬が来た冥途経由で来たかしら

やはり死がテーマとしてあるのだ。それで「春は花(桜)」というタイトルで日本人の死生観もテーマとしたのだ。そこを指摘してないな。

鳥雲ニッポニアニッポン生きてゐて絶ゆ

これは珍しく文語だけど、そこに日本人の死生観を朱鷺で象徴させているのだ。ここでも悠久の時(時=朱鷺の掛詞だった)と「鳥雲」という個人を対句的に詠んでいた。リフレインは師匠である三橋敏雄に通じるとか。


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