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シン・短歌レッスン185




1930年代以前生まれの歌人

大野道夫『つぶやく現代の短歌史(1985-2021) 「口語化」する短歌の言葉と心を読みとく』から。短歌史は篠弘を読んだのがけっこう面白かった。

それで短歌史は「前衛短歌」(60・70年代)ぐらいまでしか語られず俵万智世代(80年代)以降を見ていこうという本なのだが、こういう本を読みたかった。俵万智以後なんかそれまでの短歌の文法とは違っていると感じるのだが、それが口語化短歌というものかもしれなかった。まず篠弘と菱川善夫の『敗北の抒情』はチェックだな。

醫師は安樂死を語れども逆光の自轉車屋の宙吊りの自轉車  塚本邦雄

塚本邦雄の語りにくさというのは思想もあるのだけど旧字へのこだわりというか、旧字がパソコンでは出しにくいというのがあった。それで時間を取られてしまうので、あまり論じたくないというのがある。塚本邦雄を論じるなら旧字にすべきなんで、そこの違いがどうでもいいと思ってしまうと、塚本短歌は論じ得ないのではないかと思ってしまうのだが、塚本邦雄とは考え方が違うので旧字でなくてもいいのかな。旧字にこだわっているといつまでも塚本邦雄は保留したままになるのだ。余計なことは言わないのが、この国の美徳だから。

海こえてかなしき婚をあせりたる権力のやわらかき部分見ゆ 岡井隆

岡井隆も旧仮名、旧字だったが、旧字はそれほど拘ってないかもしれない。ただやはり文語短歌はとっつきにくさがある。

そして菱川善夫の『敗北の抒情』はこの時代の前衛短歌は短歌の定型の抒情性が、旧態依然の伝統短歌に縛られ、それは日本文化の敗戦だったのだということなのか。ただ塚本も岡井隆も短歌の形式は捨てようとしなかった。

わが去らば冬は至らむ高原のすすきの穂よりうまれいづる霧 篠弘

『百科全書派』(1990年)

篠弘は身の引き方を考えていたと思われるのは、このような句か。すすきの穂を自身に喩え、霧のようになってしまったという高原(短歌世界)か。ただ「去らば」は未然形の仮定条件なので、まだ去ることはできないと言う意味なのか。それがすすきの穂になっても存在し続けるということなのか。

父逝けりさはあれ九十九歳の紺の浴衣のなほをとこ なれ 安永路子

『青湖』(1992年)

こういう歌はどうでもよく、所詮他人ごとだと思ってしまう。爺に男を感じようと感じまいと。いや、「なれ」が嫌なのかもしれない。爺になってまで男でいろと。むしろ年老いて中性的になっていく方がいいのかと。幼児に還るというような。「さはあれ」とリフレインさせている「なれ」ということだと。

死よ汝は花粉をつけし蜜蜂のごとく飛び来くる 夏雨なつぐれ のなか 谷川健一

『青水沫』(1994年)

こっちは蜜蜂の象徴がアニミズム的運命なのか?夏雨でも花粉を付けて飛ばねばなるまい。「なつぐれ」は沖縄の方言だという。谷川雁の兄だという。

みじかかる一生にあらずありありて幾百の富士われを励ます 島田修二

『草木國試』(1995年)

先日読んだ本が島田修三『昭和遠近』なので、誤字かと思ったが両方実在する人だった。

眼をつむればまっくらやみが来るそんなことにも気づかざりけり 高橋一誌

『スミレ幼稚園』(1996年)

ただごと歌なのかと思ってしまうが死の比喩かもしれない。定型ではなく破調だという。「眼をつぶれば まっくら やみがくる そんなことにも きづかざりけり」「眼をつむれ ばまっくら やみがくる そんなことにも きづかりけり」とも読める。

長江も黄河もなびけこの雨になびかざるなしなびきてゆかん 石川一成

『長江無限』(1985年)

観光地短歌か?中国文明を否定して和歌が生まれたことも言っているのか?

ひと匙の果汁はのどをとほりすぎ赤子よ人間をもう逃げられぬ 谷井美恵子

『日常空間』(1988年)

日常性を歌いながら観念は非日常をイメージする。このへんはわからないこともない。

人ならば黄金の憤怒に身を震う忘我恍惚の銀杏なるべし 佐佐木幸綱

「ひとならば」「短歌研究 1989年1月号」

この銀杏は「ぎんなん」なのか?臭い匂いがたまらないというような。綺麗に読むと銀杏の葉っぱなのだが。「憤怒」は「ふんど」だからやっぱぎんなんに相応しような。

1940年代生まれの歌人

人あまた乗り合う夕べのエレヴェーター升目の中の鬱の字ほどに 香川ヒサ

『テクネー』(1990年)

「ヒサ」というカタカナ名前だったから若い人だと思ったがそうでもなかった。結社出身ではなくカルチャー・センターの出身だという。鬱という字を原稿用紙の升目に納めることが出来る人を尊敬してしまう。1940年代ぐらいだったらいるかもしれない。

くびられし祖父よ菜の花は好きですか網戸を透きて没り日おわりぬ 佐伯裕子

『春の旋律』(1985年)

佐伯裕子は祖父のことしか出てこないかと思ってしまう。祖父が特別だったから取り上げられるのかな、と。祖父意外の短歌はあまり知られていないのでは。そこがいまいちかなと思ってしまう。

高橋和巳の夭死と思う年ごとの身にまといゆく春宵の霧 三枝昂之

『塔と季節の物語』(1986年)

こういう歌もその人物を知っていればいいと思うのだが知らない人は素通りかもしれない。その年代を知る人の短歌なのか。あと名前も難しい。読めなかった。

開け放つ虫かごよりぞ十万にいきものののがれしたるみどり 玉井清弘

『風箏』(1986年)

下の句がすべてひらがなになって溶けていく感じなのか。「いきものののがれたる」の「の」連続とか言葉派の短歌なのか。実際の情景(イメージの歌)ではないのでは、と思う。

無瀉苦瀉と女恋しく女憎くラズベリーヨーグルトのひとすくい 永田和宏

『やぐるま』(1986年)

「無瀉苦瀉」の漢字が出てこなかった。こういう人はパソコン世代にいちゃもんを言っているのか嫌がらせとしか思えない。「瀉」は昔の医学用語みたいで、教養がないと読めない。

まあ永田和宏の歌は大体が妻(河野裕子)の相聞歌みたいになっているのだが。面倒くさい人だ。

七日前わが食ひし羊の腸が針髭となりて頬に出るまで 小池光

『日々の思い出』(1988年)

聖書かなにかの比喩なんだろうか。実際にあった話なら凄いことだ。どうも比喩のようだ。青春時代の傷跡とか?これも面倒くさい歌だった。

雨月の夜密の暗さとなりにけり野沢凡兆その妻羽紅 高野公彦

『雨月』(1988年)

この年代はノスタルジー世代なのか。野沢凡兆がわからないとさっぱりだ。

芭蕉の弟子か。こういうのは教養なんだろうな。それにしては妻の名前が舶来品みたいだ。「とめ」と読む。才女であったらしい。ここまでだと蘊蓄だよな(調べないとわからない)。「うこう」と読んでいるな。俳号みたいだ。

高野公彦はライトヴァースに対して「批評精神」が欠けているという。

1950年代生まれの歌人

夕照はしづかに展くこの谷のPARCO三基を墓標となすまで 仙波龍英

『わたしは可愛い三日月兎』(1985年)

この辺の批評精神は大いに買うが、この歌がライトヴァースの先駆と言われたのか。

見上ぐればれよとばかり山澄みていやおうも無しわれは立たされる 坂井修一

『ラビュリストンの日々』(1986年)

ちょっと難解になってくるのは狂気性を帯びてくるからだ。この辺りから難解短歌になっていくのか?

さはさあれこの音韻のたのしさはかあるびんそんかあるびんびん 阿木津英

『白微光』(1987年)

原子力空母カール・ロビンソンをひらがなにして、びんびんとか、アメリカの男根主義をおちょくっている感じか。でもこの辺はやっぱ難解短歌だ。「さはさあれ」の言葉がわからない。

きみの写真をみているぼくの写真ジョン、ジョン、わかったよぼくが誰だか 加藤治郎

『サニー・サイド・アップ』(1987年)

加藤治郎が「ライトヴァース」のイメージだけど、この短歌は知らなかった。これだけでは、ジョン・レノンの暗殺者トレシー・チャプマンとかはわからないと思うが連作なのか?この短歌を読むだけではジョン・レノン・オタクかということだが、トレシー・チャプマンもそうだっけ。「誰だか」でジョン・レノンと出てくるのは世代的なものがあるかもしれない。いまだったら、ジョン・ルーリーとか(映画を見たばっかだった)。そういうことかな。ジョンという固有名は大勢いるけど、特定の誰かというとその内輪になる。わかった人にだけ伝わればいいということなのか?

生まれ来むはじめての子を待つ日々の心はただに遠浅なせり 久葉堯

『海上銀河』(1987年)

子供の歌は子供を持たないものは疎外されているように感じる。だから何?みたいな。

三鬼にもきみにも遠き恋ありてしのばゆ夜の桃甘ければ 今野寿美
かへすがへすその夜のわれを羞ぢらいて白桃つつめる薄紙をとく 

『世紀末の桃』(1988年)

これは西東三鬼に桃の俳句があり、それの本歌取りというか相聞歌なのか?文語が去っても文語を大切に歌うということらしい。「やはらかに文語の季節去りにけり花見むとしてわれは目を閉ず」このぐらいの文語ならば読める。

高級桃という感じの中にエロチックなものがありという感じか。桃とエロスはありきたりな感じもするが、短歌ではそういうのを咎められない。むしろ桃でエロスを感じろと。この歌は過去の青春を詠んでいるということだった。ノスタルジー短歌。センチメンタル短歌か。なんか短歌の掲載の仕方のルールでとまどう。

桃の密手のひらの見えぬ傷に沁む若い日はいつか終わむ 米川千嘉子

『夏空の櫂』(1988年)

上の解釈がこの歌の解釈だった。まあ似たような歌だが。

宥されるわれは生みたし 硝子・貝・時計のやうに響きあふ子ら 水原紫苑

『びあんか』(1989年)

最初は歌のことだと思ったが子供なのか。幻想なんで言葉ということなのか。

1960年代生まれの歌人

「ゆで卵よ」しんじて割る手はどろ、どろ、どろ
 見ているわたしもどろ、どろ、どろ      林あまり

『MARS☆ANGEL』(1986年)

林あまりは面白いと感じる。わかりやすいし、探っていけば深みもありそうだし。

橋桁にもんどりうてるこの水はくるしむみづと決めてみてゐる 辰巳泰子

『紅い花』(1989年)

橋姫の歌なんだろうか?辰巳は俵万智に対して綺麗ごと(ファンタジー)であり、俵万智が取りこぼしたリアルが自分にはあると言っている。この辺の断絶が後に短歌の二極化になっていくのだろうか?

まだこの辺の短歌は理解できるのだが、俵万智以降になると理解できないというか、理解したくないのかも。辰巳泰子の批評が当たっているかも。

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