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シン・現代詩レッスン6
梯久美子『サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する』を読んで宮沢賢治の詩が良かったので『春と修羅』から。『春と修羅』は妹の死から当時宮沢賢治が信仰していた日蓮宗の教義が信じられなくなって、そこから立ち直っていくサハリンまでの旅をする中で、膨大な詩を書くのだけど、一番有名なのは、「永訣の朝」で、梯久美子の本で感動したのは「青森挽歌」「オホーツク挽歌」なんだが、妹の死とある程度の長さがあって難しいので、その詩の序から考え方を学びたいと思う。
春と修羅(心象スケッチ)序
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
最初に「わたくしという現象は」という哲学的な問い。それは日蓮宗(法華経)の教義への疑問として、なぜ妹が死ななければならないのかという問いを発する。妹は精神的な同志のような関係で、賢治の思想を理解してくれたただ一人の人とい言われている。そんな妹が死ぬ間際になって自分は罪人だから地獄へ行くのだと賢治に語ったという。賢治にとって妹は純真無垢な存在であったのに、何故そんな目に会うのか!と問わずにいられなかったのだ。
それはキリスト教のイエスの神に対する問いや『カラマーゾフの兄弟』での「大審問官」のイワン・カラマーゾフが語るキリスト教への疑問が弟アレクセイ(アリョーシャ)が疑問に思うシーンと重なるのだ。
「仮定された有機交流電燈」とはそういう聖書とか文学にでてくる話に交感していく宮沢賢治の姿なのだろう。
「青」は、青春とか青い思想とかの意味が含まれるだろうか?
「幽霊の複合体」は妹トシの成仏できない幽霊や宮沢賢治の様々な概念。
「風景」は妹トシが彷徨っているカラフト(流刑地、チェーホフ『サハリン島』は日本語でサガレンと言われた)と賢治自身が彷徨っている現世の世界だろうか?
桜と阿修羅(イントロダクション)
私という存在は
虚構化された自我の精神である
煩悩はピンクの世界に彷徨う
怠惰は情欲に溺れていく
点滅した街の街燈は
光と影の世界を映し出す
光は白昼の眩しさであり
影は暗闇の幻である
(桜は散っていくのだろう)