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スポーツというより相撲道という文化の「美しい日本」の姿

『サンクチュアリ-聖域-』(2023/Netflix/日本)監督江口カン 出演一ノ瀬ワタル染谷将太忽那汐里田口トモロヲきたろう

相撲ドラマと言えば漫画で連載された『ああ播磨灘』を思い出した。型破りな横綱(千代の富士がモデルと思われる)の作風は今回も継承しているように思える。


ただ今回は型破りな力士を日本人の不良青年にしたことで、どこか更生的な内容になっている。それはアメリカ帰りの帰国子女の女性記者が結局は日本の伝統文化である相撲という儀式(スポーツではないよな)の中にある聖域に触れるという内容だ。

例えば型破りで浮かぶ朝青龍らしきモンゴル力士を主人公として登場させたらどうだっただろうか?あまりにも家父長制的なドラマでありそれが日本文化の伝統だからフェミニズムはだまっていろというドラマかと思ったのは、同時期に韓国のフェミニズム小説を読んでいたからだ。

相撲の強さとマネーを求める主人公はいささか現実的というより相撲ヨイショ的な意図を感じてしまう。まあ最近は相撲女子も現れるほどの人気なのだそうだが。それで相撲界も変化するのだろうか?

強さを求めるなら総合格闘技とか、なにより曙がボブ・ザップに負けたのはイメージダウンだった。昔だったら相撲界でおちこぼれた力道山が外人レスラーをバタバタ倒すとか柔道日本一に勝ってしまうとか相撲最強の神話が出来たものだが。今はやはり打撃系の方が強いのかなと思えてしまう。

スピードにしてもアメリカンフットボールに挑戦した横綱のダメさ加減とか、そういえばモンゴル力士の前はハワイのフットボールをやっていた巨漢を連れてきたのだった。その成功者が曙(曙はバスケットボール)だったわけだ。

日本での人気低下と共にモンゴル力士を連れてきたのだが、文化の違いで朝青龍は脱落、白鳳は日本文化を学ぶ優等生になった。

マネーの方もタニマチという暗部の存在。まだそこはドラマで明らかにされないが以後の展開で問題になりそうな予感はある。親方の政治的繋がりや近親的な繋がりが家父長制を形作っている。それは競技よりも文化としての側面が強いからだろう。型破りは型無しではないとは、よく能や歌舞伎で言われることで、相撲も最初の型が重要なのだというのはこのドラマのテーマになっている。

それは家父長制という文化の型であり、それでもこのドラマが面白いのは猿桜の母である余貴美子の鬼母であろう。ライバルの静内も鬼母というような殺人鬼の母を持った存在だった。その母(鬼の出身)をどう家父長制の中で無化していくか、そこが見所なのかもしれない。

例えば先輩力士の断髪式で縁の下の役割を背負った妻は断髪が出来ないルールがあった。ただ息子が父を断髪している姿を見て泣くのある。土俵は女人禁制だからだ。いつまでこの「日本の美」が続くのだろうか?


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