シン・俳句レッスン103
蕗の薹
毒があるからそのままでは食べられないのだ。最近どんな植物にも毒があることを知った。それは植物自身が食べられないようにする防衛作なのだが、耐性が出来たり、人間は何でも食べる工夫をするから食べているのだが、米とか小麦の稲作文化もそういう毒を排除して行ったのか。しかし、それが近年アレルギーを引き起こすことに成っているのは自然に近いのかな。安全ばかりじゃない世界という。
川柳だな。俳句の川柳化なのか?
NHK俳句
ゲストが笹公人だった。彼の『シン・短歌入門』から「シン・俳句レッスン」はパクリでもないし、本が出る前から「シン・短歌レッスン」はやっていたのだ。
「蓬」。蓬も薬草とかお灸とか毒成分を利用するのだった。だから神聖なものなのかもしれない。ハーブと考えればいいのかな。初心者俳句は挨拶句で座の文芸としての俳句だった。今日は山田佳乃さんの最後の日だと挨拶があったな。山田佳乃さんは謙虚だよな。謙虚すぎるかもしれない。
やっちまったよ。NHK俳句なんて観ていたから。今日も鍋洗いで一日が終わる。
句会の空間
小林恭二『俳句という遊び──句会の空間』からメンバーは、三橋敏雄、安井浩司、高橋睦郎、坪内稔典、田中裕明、岸本尚毅、飯田龍太、小澤實。
第6R。「枝」。出題者は高橋睦郎。
田中、小林の2点。この回は表がわれて、逆選がない無難な句が残ったとか。何の変哲もなくただ詠んだだけの句だという。作者は岸本尚毅。
逆選3の句。
上の句は坪内稔典。桃の句が多いのは生花とかあったのだろうか?桃の坂とあったからそういう土地なのか?桃の花はあまり見ないので羨ましい。桃には桃源郷という感じもあるから、それを捻っているのかもしれない。坪内稔典は最下位独走中なのは、そういう作風だからだという。
下の句は田中裕明。「春の泊」という季語があるのだという。「泊」は港の意味だった。宿かと思ってしまった。それで水玉なんだ。水玉の壺ではないのか?わかりにくいというか学がありすぎて受けが悪いのは田中裕明だった。独りよがりな俳句のような気がする。
孫のために雛人形を買ってあげたが桃の杖(枝)として返ってきたという句。枝を杖としたから、反則かもしれない。
第7R。「種」安井浩司。
今回も2点句が最高だった。
高橋、川上。一瞬の動作を詠んだ句。類想句がありそうだという小林恭二の指摘。まあミレーの「種蒔く人」をイメージするのは一緒かな。作者は岸本尚毅。岸本尚毅は無難な句が多く、120点句がないという。そんな感じなのであるが、それは俳句が座の文芸だとわきまえているからなのだろう。ゲーム的な。
マイナス3点句だけど、私はいいと思ったのだが。その辺がプロと素人の違いかな。ありきたりな情景だと思ったのだろう。綺麗すぎるのも俗がない。下町が俗だけど。作者は小澤實。逆選が多いのは甲斐の山奥に来たのに下町はないだろうということだった。場違いの句。
心の花を咲かせましょう。
第8R。「闇」。田中裕明。
これも最高2点だな。なんかあまり面白くない句会だな。
上の句は、田中、小林、川上。逆選が一つか?この句は上手いと思うが。作者は飯田龍太。
下の句は、高橋、岸本。「万屋」というのがよくわからんけど、ごちゃごちゃしている店の中という感じなのか?新緑の光の時でも暗い店なんだろうな。「は」で止めるのが童話的だという。よくわからん。新緑の感じがメルヘンなのかな?作者は坪内稔典。
マイナス3点句。
逆選の句の方が面白いように感じるが。上は句会の情景なのかなと思った。作者は安井浩司。
下の句も藤の花の下の闇というか、風情がある。手つきが見え透いているという小林恭二評。作者は田中裕明。
第9R「甲斐」小澤實。
飯田、坪内、岸本の三点。音韻と明るいイメージか?小林恭二は場所の限定性を言って、「目の限り芽吹く」は山国だという。そして広い土地ではなく、限定された空(私は広い空をイメージしたのだが)を断定的に言うのがいいという。作者は高橋睦郎。
マイナス2点が2句。
上の句は春なのに白い雪が残っている山国というイメージでいいと思うが甲斐に限定されないということなのか?小学生の絵みたいだという。作者は三橋敏雄。下の句は繰り返しが意味がないという。そうかな。音韻がいいのではないか?作者は坪内稔典。
これはペケだな。甲斐のイメージがわかないのだ。すぐ浮かんだのが甲斐バンドぐらい。
最終R「いか」岸本尚毅。
この日最高得点の5点。飯田、三橋、安井、高橋、田中。
なんか普通に言うんじゃない。それが何?という感じがするけど。花烏賊がイメージできん。春の烏賊なのかな?俳句特有の季語だそうだ。「言う人も」という庶民の声を代表したように装っているのがいいという。作者は岸本尚毅。
逆選4。普通にいいと思うが。晩酌っぽいよな。三橋敏雄。
一日目の最高得点は岸本尚毅で最低得点が田中裕明だった。似たような感じなのだが、岸本尚毅は座の文芸に徹して、田中裕明は自分を出しすぎたのか?あまり納得がいかない句会だな。
これも川柳だな。
昭和俳句史
川名大『昭和俳句史』「金子兜太の新風」。金子兜太は前衛俳句とされるのだが、それは社会詠だからで表現としてはそれほど前衛とも思わないのだが。まず「造型俳句」論だ。
社会性俳句との違いを明確にする。そこが一番勘違いしているんだな。
広義の戦中の社会性俳句は、態度の問題としているのだが、それが戦後になると雰囲気の問題となっていく。
「原爆ゆすまじ」が形骸化した社会正義のスローガンであり、それらは今となっては虚しく響く言葉にしかすぎない。社会的リアリズム運動という下部の俳句でしかなく、精緻な俳句的表現方法を見出す必要性があると感じたのだ。それが高柳によって「新しい俳句詩法の想像」を受けて、金子兜太が主張した「造型俳句」の手法だった。
それは「写生」への疑問から始まり「写生」や「実感」を超えたものとして「メタファー」や「イマジネーション」を主張する。それは従来からの季語的な諷詠法を否定するものとして、中村草田男との議論になった(最初に中村草田男を未成熟なメタファーだと否定したのは高柳だった)。
金子が「造型俳句」になる5段階のプロセスを上げている。
説明が七面倒臭い。要は感情だけでは駄目で論理性が必要なのだが、シュールのようなイマジネーションをメタファーとする無意識的なものを意識的なものへと変えていく。それは必然に「暗喩(象徴)」となると言っているのか?
ただ金子兜太は「暗喩」を理解してないらしく、直喩も暗喩だとしてしまっているという。そこが高柳との食い違いのようなのだが、よくわからん。
「烏賊のごとく」は直喩だから、それは蛍光灯を言っているのか、銀行員が烏賊だと言っているのか?それは深海魚のごとくという意味で暗喩だと主張するのだが、高柳重信に添削されている。彼の行分け俳句にするならばと断って。
烏賊じゃなく蛍烏賊とすることで直喩を消して象徴的な表現の暗喩になっているとするのだ。でもなんで直喩が駄目なのかわからん。象徴性を求めるからだろうか?直喩だと写生の延長になるからか?
長すぎ。
ちょっと俳句っぽいかな。定形が俳句っぽいのか?
今日の俳句
最近、川柳化しているかな。