俳句は座の文学、人間関係も大切
『東京マッハ―俳句を選んで、推して、語り合う』千野 帽子/長嶋 有/堀本 裕樹/米光 一成【著】
千野帽子氏らが公開句会「東京マッハ」を書籍化したもの。句会の楽しさを伝えているとは思う。ただここに登場する方々はプロだから俳句のレベルが高くて最初は良さがなかなかわからないと思う。
東京マッハも内輪と言えば内輪なんだが、句会の楽しさは伝えている。むしろ俳句というよりも句会の楽しさだった。ただそういう仲間を見いだせない者も、俳句は座の文学という中に人間関係もあるということを知るだろう。
長嶋有は評価基準を「カッコよさ」に求めると言っている。ほとんど私もそうなんだと思うのだが、この「カッコよさ」の基準も時代と共に変わるということ。例えばGパン(今の人は、ジーンズと言う)でも、破れたGパンがカッコいいというのは、ヒッピー世代を潜った人であって、そういうのを潜ってないと破れたジーンズのカッコよさは理解されないかもしれない。
ここに登場する俳人の池田澄子氏は、最近ちょっと気になる人で、『究極の俳句』でも現代俳句として口語俳句を推進してわかりやすく、それでもカッコいい俳句を作る人。ここのメンバーにリスペクトされているのが良く分かる。文学は一般化と極北化に分かれると思うのだが、いまのところ俳句で俵万智的な存在なのかなと。
それぞれのゲストによって面白さは違うのだが詩人の谷川俊太郎の会は斬新だった。谷川俊太郎の批評の言葉が詩人ならではで面白い。俳句は団栗(どんぐり)の背比べ的で小さくまとまりすぎているという。そうなんだ、初回のマッハよりみんな俳句俳句した俳句を小さく纏めて作る感じでスケールの大きさがなくなったという。そんな中で谷川俊太郎の全員の支持を集めた俳句。
言葉遊び的な谷川俊太郎の句だとわかるが、やっぱスケールの大きさか。アとイで「愛」となるけど、それはアメリカとイギリスであたりをすぐに思い浮かべて、世界はガギクゲゴみたいな。その音律が素晴らしいし。意味よりも韻律で選ぶという長嶋有は正しいのかもしれない。意味はあとから読み手が解釈してくれるのだ。勿論そういう解釈する人が多い句会でないと成り立たないのだが。ここのメンバーはみんな読みが素晴らしいのだと思う。俳句は座に投稿すれば個人を離れて読み手の作品になっていく。
最果タヒがゲストの回も面白かった。やはり詩人は読みが深いのだ。
この日のトップ俳句。「舞台縛り」ということで宝塚好きの最果タヒ歓迎のお題だった。そう思えばいい句に思えてくる。最果タヒの読みは舞台の明るさと幕が下りた時の闇の感じ、それで外が梅雨だとしたら会場は現実と別空間になり、なおさら舞台の明るさが引き立つという。やっぱ句会は読み(解釈)の世界なんだ。
また最果タヒは初心者ながら、当たり判定を予測して作るというのは詩人だから出来ること。それは好きな俳人を見つけ(最果タヒは鷹女)名句のような俳句は作れないし作り方が違うという。その辺のポイントを千野帽子の説明だと言葉の連想(イメージ)から入る人と基本通り写生で俳句をつくる人がいて、言葉のイメージの人は写生句をそれほどいいとは思えない。プレバト流の夏井いつきが選びそうな句ではないのだ。夏井いつきが選びそうな句というのがポイントとして出てくるのが面白い。
この句は落語の寄席に行った人じゃないと一番太鼓というワードを見落とす。それは真打ちの取りだけ見るミーハーじゃなく、本当に落語好きで最初から見る人なんだそうだ。それもアロハ着てという感じが絵的にもいいという。いかにもその日に写生したような出来栄えである。そういう句を長嶋有はいかにも俳句っぽい句だというで取らないで逆選(駄目句)にしたのだ。最果タヒの投稿句。
千野帽子がいうように俳句はカメラ的な決定的瞬間がいいとされているのだが、この句は動いている。それを指摘されたときどうして駄目なのかわからなかった。堀本裕樹は「血を流す」と「夕立」の取り合わせがいいという。血を流す程度だとポタポタという感じでまだ飛べるけど、血まみれだともう飛べない。その辺のセンスの問題。その血を後で夕立で流すイメージ。これはお題がゲストである最果タヒが出したのだが見事に俳人の詩心を誘い出した読みであったわけだ。
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