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シン・俳句レッスン21

最近日暮れも早くなってきて月を見る機会も多くなってきた。月は秋の季語でもあり、以前から月の文学というのも好きで、月百句にも挑戦したこともあったようだ(72句で挫折)。それ以降もいくつかは月の俳句を読んでいた。

今日は月で10句。あの頃に比べて進歩しているのか?スマホでは満月であるが、まだ半月ぐらいだった。満月は31日だった。

俳句詠み指折り数え月夜かな

まず当たり前の情景から。

飯田龍太

飯田蛇笏の息子で蛇笏の俳句の精神性を継ぎ富士山麓の村で俳句作りをするという恵まれた環境の中での美意識というような実作をした人だった。前回見たときは、求める俳句とは違うと思って軽くあしらったのだが。

鰯雲日かげは水の音迅く
天つつぬけに木犀と豚にほふ
露の村いきてかがやく曼珠沙華
黒揚羽九月の樹間透きとほり
春の鳶寄りてわかれては高みつつ
一月の川一月の谷の中
かたつむり甲斐も信濃も雨のなか
白梅のあと紅梅の深空あり
雪の日暮れはいくたびも読む文のごとし
良夜かな赤子の寝息麩のごとく

この俳句も山麓地帯に棲む者ではないとわからない感覚だという。水音の変化に気がつくということ。それは農村の生活の感性から出てきた伝統の継承である。例えば虚子の俳句と響き合うのだ。

流れゆく大根の葉の早さかな  高浜虚子

花鳥風月、自然を実写した写生句(それは聴覚でも)、それは龍太の次の言葉に現れているという。

兎に角、自然に魅惑されるということは怖ろしいことだ。

「怖ろしい」とは畏怖するということで、その共同体に棲んでいるということなのだろう。共同体観念が希薄の私には近づきようがない。

「木犀」の匂いは都市部でも感じられるが、その中に豚の匂いを天と共に感じるという純粋性、そこには他の物語(自己の内面とか)必要ないのだ。例えば「鰯雲」の有名な加藤楸邨の句と比べても

鰯雲人に告ぐべきことならず  加藤楸邨
鰯雲かげは水の音迅く     飯田龍太

「曼珠沙華」の句も白泉との句との歴然たる違い。

まんじゆしやげ昔おいらん泣きました  渡辺白泉

白泉は想像の物語の中で「曼珠沙華」と「おいらん」のアナロジー(隠喩)を用いるが龍太はそういうことを必要とせずに「曼珠沙華」そのものの美を詠めばいいのである。

曼珠沙華昼間そまりし夜の月

意識の中で曼珠沙華と取り合わせた。赤い月になったら成功か?季重なりだが、新興俳句系なんで気にしない。

加藤楸邨は内面意識の象徴(比喩)として季語「鰯雲」を用いているのに対して、飯田龍太の句は直截的な自然(季語)の中にいる自己を詠む。

近景と遠景の取り合わせと、初秋の季語(九月)の中に生息する中での「樹間」という日差しの中に影となる黒揚羽が落差の中で一体化していく。それは黒揚羽が通り抜ける樹間の透明感を印象付けるのだ。「九月の樹間透きとほり」に龍太の感性が現れているという。

夕月夜蝙蝠羽ばたく恩田川

「鳶」の句は二羽の鳶が旋回しんがらも春ののどかさの中に飛んでいる。江藤淳は夏目漱石の嫂(『彼岸過迄』か)になぞらえてこの句と龍太と嫂の姿を読み解いたとする。さすがにそれはひとりよがりな読みすぎだろう。

龍太の技法として対句法や直喩(ごとく)の特徴のある句。漢詩の絵画的表現だろうか(蕪村的)?だからか、絵画的表現?それが苦手だった。龍太の表現を真似ると絵画的になるよな。

車窓の月と追いかける月

時間の流れを詠んだ絵画的表現。

横浜も月影に遠野も月か

月夜かな追いかけて月思い月

なんかやろうとしていることがあったのだが失敗。逆にすればいいのか?

思ひ月追いかけ歩く月夜かな

最後の疑問形にしたのは字余りを避けたのとあくまでも想像に域だったから。遠近法を使いたかった。横浜で横に広がる感じで遠野に対する思い。句またがりの俳句だった。

女性俳句の光と影

宇多喜代子『女性俳句の光と影』から何人か紹介。

杉田久女
杉田久女は前回取り上げたが今日は「台所俳句」から。

夕顔に水仕もすみてたゝずめり
茄子もぐや日を照りかへす櫛のみね

「夕顔」というと『源氏物語』を思い出すが「水仕」というのは水仕事のこと。そういう台所仕事が終わってふと夕顔の前に佇むというかなり狙った情景の句だと思う。

「櫛のみね」は櫛で髪を立てることのようだが、茄子もぐという仕草とそういう着飾る女心か。それとは別に「豪農の茄子我つくった茄子に負けにけり」という負けず嫌いの久女らしい句も作っている。

竹下しづの女も4Tの影となってしまったが俳句は面白い。

苺ジャム男子はこれを食ふ可(べか)らず
蓼咲いて葦咲いてとっとっと

中村汀女。4Tの一人だが、それほど目立つことは好きではなかったようだ。虚子の娘の星野立子の影でもあったような。

おいて来し子ほどに遠き蝉のあり

三橋鷹女。4Tだけれども「ホトトギス」からは遠いところにいたという。

この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉
藤垂れてこの世のものの老婆佇(た)つ
ひるがほに電流かよひゐはせぬか
夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり
初嵐して人の機嫌はとれませぬ
白露や死んでゆく日も帯しめて

鬼女とか老婆という自分を詠むのは短歌っぽいけど最後の二句は川柳でもいいような。「白露や」の形式ばったところが俳句の人なのかなとも思う。

橋本多佳子
橋本多佳子も4Tの一人だが、久女系の俳句を作っていた。

月光にいのい死にゆくひとと寝る
雪はげし抱かれて息のつまりしこと
万緑やわが額(ぬか)にある鉄格子
つぎつぎに菜殻火(ながらび)燃ゆる久女のため

最後の二句は久女の終焉の地で詠んだ句。「鉄格子」は精神病院で亡くなったことへの暗示。「菜殻火」は虚子が「落椿投げて暖炉の火の上に」という句を暗示しているのかもしれない。台所俳句を象徴している言葉であることは間違いない。多佳子が最初に俳句の手ほどきを受けたのが久女ということだった。

鈴木しづ子
最初に女性俳人に興味をもったのが鈴木しづ子だった。戦後自らの身体でダンスホールで米兵との恋をして果てたというような。2冊の句集だけ残して消息不明というのもドラマチックだ。鈴木しづ子については、「夏みかん酢つぱしいまさら純潔など」の句が有名で消息を探った同名の本も出ていた。宇多喜代子も消息を尋ねて行ったそうだが、同じ寄宿先に棲んでいた人から消息は尋ねないのが私達の決まりというようなことを言われて止めたそうだ。この章のエッセイは読ませる。

ダンサーになろか凍夜(いてよ)の駅間歩く
黒人と踊る手さきやさくら散る
娼婦またよきか熟れた柿食うぶ
雪こんこん死びとの如き男の手
肉感に浸りひたるや熟れ石榴(ざくろ)
菊白し得たる代償ふところに
コスモスなどやさしく吹けば死ねないよ
月の夜の蹴られて水に沈む石
夏みかん酸つぱしいまさら純潔など

夏みかんの句は、しづ子は気晴らしに夏みかんのなる樹の側の郵便局に行ってのを不思議に思っていたが、それは俳句雑誌に投稿するために行っていたのだと知ることになる。

飯島晴子

飯島晴子は老いの自覚を詠む俳人だったが自殺したとか坪内稔典の本に書いてあった。飯島晴子は植物を詠むのが上手い俳人。

さるすべりしろばなちらす夢違ひ
山かぞへ川かぞへ来し桐の花
天綱は冬の菫の匂いかな
うたたねの泪大事に茄子の花

NHK俳句。第4週選者 高野ムツオの「句合せ」は面白い。ちょっと中西アルノには甘々爺さんだとは思うが、読みが鋭いな。インスタントのすまし汁でそこまで読めるかと思うぐらい。

村上鞆彦さん「秋晴」、高野ムツオさん「虫」
~9月4日(月) 午後1時 締め切り~
 https://forms.nhk.or.jp/q/IP6RDN72

今日も長くなってしまった。暑くてだらだらしてしまう。

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