悲劇は感情を揺さぶられるが
『死と乙女』アリエル・ドルフマン, (翻訳)飯島 みどり (岩波文庫 赤N790-1)
思い出さなければならないのはあの国の裁判よりもこの国の裁判ではなかろうか?チリで起きた拷問という判決を受けた女性がピストルを手にした裁判形式の戯曲。この小説は当事者同士が問題になるではなく、夫であり弁護士である第三者が判断しなければならない個人的な判決なのだと思う。民主的国家の公的裁判ではなく、文学的な私的判決なのである。それは不条理劇という戯曲の中で行われたことなのだが、答えが出せないままにこの国の民主主義も続いていくのだろうか?
この国の裁判というのは、伊藤詩織さんの裁判である。例えばそれをこの戯曲に置き換えた場合、この夫婦は修復可能なのかどうか?レイプ事件を知ったあとでもそれまでの夫婦生活を送れるのかどうか?その告白を証言として求められるのは被害者であり拷問(レイプ)される側なのだ。
戯曲として優れているのは夫に語った妻の拷問に嘘が隠されており、それを被告が訂正して述べたという点だろうか?音楽でいうオリジナル(嘘の証言)はアドリブ(被告の証言)によって、確証を得られたとするのだが。
その呼び名が「ファンタ」というアメリカ大企業の清涼飲料なのは意味があるのだろうか?解説ではその説明がなされていたが、戯曲だけではチリの状況はわかりずらいのだが、最近日本でも公開されたチリ映画『オオカミの家』の背景にあった「コロニア・ディグニダ」の問題とも深く関わる事件だったのだ。
それは権力(軍事政権)に委ねられた拷問システムとして医者が手を貸していたこと。民間人による拷問システムとして、権力と共にあったという事実なのである。それはファシズムの問題だけではないような気がする。アーレントが提出した問題「アイヒマン裁判」とも考え合わせたい問題なのかもしれない。
ポランスキーによって映画化されたというが未見だった。というか日本では話題にもならなかったような。アメリカのブロードウェイで上演されたのが世界的に注目を集めたことだった。ヒロインはシガニー・ウィーバー(「エイリアン」のお母さん役)だったと知って、なんか違う芝居になっているような感じがした。