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漢字の呪術性(白川漢字学の面白さ)

『白川静入門―真・狂・遊 』小山鉄郎(平凡社新書 )

古代世界に遊び、漢字の真の意味と成り立ちを追い求め、新たな文字体系を打ち立てた狂狷の人、白川静。二・二六事件の際に詠まれた短歌や様々なエピソードからその人物像に迫る一方、石牟礼道子、宮城谷昌光、村上春樹ら多くの作家への影響や、諸橋漢和辞典との比較を具体的な事例で概観する。
目次
第1章 白川静と文学者たち(宮城谷昌光の出世作『天空の舟 小説・伊尹伝』;栗田勇『一休 その破戒と風狂』 ほか)
第2章 白川静『字統』と諸橋轍次『広漢和辞典』(「右」という字;「新」「薪」「親」 ほか)
第3章 白川静の弁証法的思考(否定者によって、止揚される;弁証法的思想家 ほか)
第4章 人間・白川静(お茶目で楽しい人 ほか)
第5章 ほんとうの碩学、白川静(「右」と「左」を合わせた文字;間違いの多い戦後の文字改革 ほか)

俳句とかやっていると読めない漢字とかに悩まされるので少しでも漢字に親しもうと借りた。白川漢字学では漢字の起源は神に捧げる祝詞(呪術)とか多く、古代中国の歴史を感じさせる(丁度陳舜臣『中国の歴史』も読んでいるので関連性がある)。白川漢字学が文学に与えた影響から漢字辞典の盗作問題?についての批判とか孔子の批判で荘子の思想が止揚されるとか(弁証法的思考)いろいろ得るところはあった。あと常用漢字のずさんさは自分たちの世代を悩ませることになったのか?漢字は難しいけど面白い。

第1章 白川静と文学者たち

李良枝の遺作長編『石の聲』は、好きな作家だから読んだが「文字としての漢字」が楽器として石を打つように奏で踊るというのは、韓国芸能のサムルノリとかなんだろうか?村上春樹にも白川漢字学から流用があるというのだが、それは呪術とかに関心があると自然とそういう言葉の世界に行ってしまうような。大江健三郎にもそれはありそうな気がする。というか村上春樹は大江健三郎から白川漢字学に入ったのかもしれない。何かと文学者は起源を求めたがるから、そういうこともあるかもしれない。

第二章 白川静『字統』と諸橋轍次『広漢和辞典』


白川静は学会とかの権威から異端と見られていたのだが、漢字学の権威である漢字辞書を作る大御所が白川静の漢字の起源から、勝手に流用していたという著作権の問題なのだが、そうした漢字学の論争はわかりにくいが権威者も白川漢字学を流用していたということなのだろう。それと関連して、中国でも白川漢字学が良く知られていて大学で教えていたりするという。それは漢文化という共通性は国の境界はないということで、中国が起源だからといって日本人の漢字論をないがしろにするものでもないという。

実際の漢字についての説明は、けっこう専門的で難しいのだが、簡単なところでは口偏は人の口を表しているのではなく神の捧げ物の入れ物とか。それを知ることによって口偏の漢字について系統的に理解できるということだった。特に白川漢字学では、呪術的な表意文字としての意味が深く、漢字はおまじないや霊の封印に使われたということだ。

道と言う漢字の首は、辶が四辻を表し、その首は異民族の首でそれをかりにいく道だということらしい。ちょっとおどろおどろしいが。

第三章 白川静の弁証法的思考

白川静が批判(批評)的に書くのは、孔子を批判することで荘子の道が開ける(止揚される)という弁証法的手法なのだそうで、中国の漢字学の権威許慎の『説文解字』を調べてその不備を指摘して、時代と共に殷の発掘で甲骨文字が明らかにされたこともあり、次第に白川漢字学を深めていくのだが、それは許慎を否定したわけでもなく、許慎はまだそういう発掘がない時代に漢字を体系化した偉人であるわけで、そこに留まるよりは踏み越えて行くことだという。そこに批判(批評性)はあり、もともと明らかに異なる意見ならそんなものは無視するのだから同じ方向性でありなが、違和を明らかにしていくことによって自分の道を深めるのだという。

それは否定者によって止揚される弁証法的手法は形而上学の荘子の哲学に通じるというのだ。それには孔子の『論語』が必要なのであり、孔子なければ荘子もなかったということなのだ。

漢字というものが異民族の血塗られた歴史でもあるわけだが、そのことから異民族がそこにいたという証明なのである。


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