シン・俳句レッスン35
栗も難しいんだよな。まあ大体季語そのものというものは難しいのだが。栗だと栗ご飯とかありきたりな感じだろうか?子季も多かった。
でもやっぱいがだよな。いがという漢字はないのか?「毬」と書くらしい。ちっともいがいがっぽくないではないか?まり?とか思ってしまう。
この句も音韻で勝負だった。毬は意外性があるか?
戦時下の俳人たち
川名大『昭和俳句 新詩精神(エスプリ・ヌーボー)の水脈』から「戦時下の俳人たち」。富沢赤黄男、渡辺白泉、鈴木六林男。
新興俳句弾圧事件の後、それまでのように自由に俳句が作れなくなり体制翼賛的に変貌していくしかない俳句雑誌であった。その中で「旗艦」と「天の川」2誌は存続したが「旗艦」の新体制の精神というのは、まさに迎合そのものだった。
「旗艦」は昭和16年に終刊。その後を継いだのが「琥珀」だった。そこだけが新興俳人の行き場所だったのである。それでもかつての新興俳句は影を潜めた。「天の川」も昭和18年に休刊に追い込まれていたが篠原鳳作亡き後は俳句雑誌の力もすでに失っていた。
富沢赤黄男は体制翼賛の意識構造に順応していくが、それでも従軍戦争俳句には見るべきものがあった。
もっとも態度を変えなかった白泉にしても古典俳諧研究という志を勧めていかざる得なかった。
敗戦を迎えるに当たってやっとそれまでのように戦争俳句を作ることが出来た。
そんな中で鈴木六林男は従軍しながらも厳しい検閲をかいくぐって自身の句を残した。それは赤黄男のように前線から検閲を通して俳句雑誌に送ったのではなく、前線ではノートに取らずに暗記して(その点俳句は便利だった)、検閲されない船上から自身の句を雑誌に送った。
なんとなくやった覚えがあるような。
藤木清子
マンネリを感じる今日このごろ。