芙蓉。季語は秋だけれども中上健次の小説に夏芙蓉が盛んに出てくる。調べてもどんな花かはわからなかったが、多分、芙蓉をそう呼んだのかもしれない。芙蓉は蓮の別名というこで仏教的な花でもある。浄土とかそういう意味も含まれているのかもしれない。
「戦争俳句」の背景としての現実
川名大『昭和俳句 新詩精神(エスプリ・ヌーボー)の水脈』から「『戦争俳句』の背景としての現実」。俳句は個人によって作られるが、それ以上に他者に読まれて批評されることで浮上してくるのだ。例えば藤木清子の埋もれていく俳句は、宇多喜代子らが廃棄処分にされそうな「旗艦」という俳句誌からサルベージした(引き上げた)ものである。埋もれてゆく俳句の数々からサルベージされた「戦争俳句」は他者によって批評されて輝いていた。
神田秀夫の批評
むろんこの解釈は戦争を知る人のもので、現在の解釈とは違うかもしれない。しかし少なくとも理解への補助線とはなっていくのだ。そうして白泉の俳句はサルベージされるごとに批評という言葉で強化されていくのである。川名大『昭和俳句 新詩精神(エスプリ・ヌーボー)の水脈』もその一端のサルベージする批評本なのだ。
作品以上に過剰な解釈だが、戦争俳句の背景となっている情景が作品以上に理解できるのだった。
藤木清子