シン・俳句レッスン134
アザミ
薊単独では春の季語で、夏に咲くのを夏薊、秋に咲くのを秋薊というのだそうだ?鬼薊はどっち?秋薊ということだった。
ヒマワリが夏の季語だから、これでいいのか?
ヤサグレ感を出してみた。
百人一句
今日はテキストがないので、これまでの成果として自分なりの「百人一句」を上げてどこまで語れるかやってみたい。
1 船焼き捨てし
船長は
泳ぐかな 高柳重信
いきなり行分け俳句だが、行分けすることによって俳句の韻律に縛られない作者のリズムを生み出すことに成功している。行分けするだけで俳句に対する意識が変化してくるという驚き。また高柳重信のこの句には空白にも意味があるような。何故船長は船を焼いてしまったのか。泳いでいるのは船長なのか?また俳句を口承文学というよりも、文字の文学として視覚に訴えてくるものだった。それは現代詩の視覚性と通じつものがあるのかもしれない。この俳句を見たときに、メルヴィルの『白鯨』を連想したのだった。巨大な世界文学を俳句にしたら、こんな感じか?
2 戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡邊白泉
これも新興俳句で無季の定型を崩しているが、俳句の短詩としての在り方と戦争という擬人化というよりも、ひしひしと近づいている緊張感が感じられる。まあ、これは第二次世界大戦に詠まれたのだが、今であってもおかしくない現代にも通用する古くならない俳句だった。
3 頭の中で白い夏野となつてゐる 高屋窓秋
芭蕉の辞世の句、旅に病んで夢は枯野をかけめぐるの本歌取りを思わせるが、見事にモダニズムの白が夏野というイメージで斬新だった。高屋窓秋は新興俳句の人にも影響を与えた俳人であり、伝統俳句(有季定型)と新興俳句を繋ぐ架け橋だったかもしれない。
4 旅に病んで夢は枯野をかけめぐる 松尾芭蕉
厳密には芭蕉のメモ書きを無理やり俳句として弟子たちが辞世の句に仕立て上げたようなのだが、これほど芭蕉に相応しい辞世の句かなと思うのも事実なのであった。まさに芭蕉は今でも枯野を駆け巡っているかもしれない。
5 しんしんと肺碧きまで海のたび 篠原鳳作
先ほどの高屋窓秋の句をうけて碧が出てきたのだと思うがどこまでも碧い海というモダニズム俳句。「しんしんと」がその碧さに吸い込まれるようで、またその深呼吸が孤独さをつぶやいているようで新鮮な俳句だ。
6 蝶落ちて大音響の決氷期 富沢赤黄男
富澤赤黄男の名前を留めた名句。蝶というもっとも軽やかな生物が大音響という「決氷期」。「決氷期」という耳慣れない言葉のインパクトも絶大でそこから一気に凍っていくような世界が想像できる。戦争俳句で飛行機が堕ちたのを詠んだ句のようなのだが。神話的と言ってもいい俳句になっている。
7 水枕ガバリと寒い海がある 西東三鬼
西東三鬼のこの句も神話的イメージだが、こっちは病気だとイメージできる。水枕の氷が耳元で鳴っているのだろうか?
8 赤い椿白い椿と落ちにけり 碧梧桐
碧梧桐は虚子のライバルだったが、今はほとんど語られることがないが、この句はよく語られる。絵が見えるような絵画的俳句か?写生句よりもイメージの句だと思う。
9 流れ行く大根の葉の早さかな 高浜虚子
高浜虚子は好きじゃないけど、この句はいいと思う。田舎のあぜ道にあるような流れの早い小川で畑の採れたての大根を洗っているのである。その時に葉が折れて勢いよく流れ去っていった。清流の冷たさと空気感がマッチしている。
10 柿喰えば鐘が鳴るなる法隆寺 正岡子規
碧梧桐と虚子を上げたのに子規をあげないわけには行かない。でも子規で好きな俳句はなんだろうと考えて当たり前のように出てきた。正確に諳んじて言えるのはこの句だけかもしれない。それほど口承性がいいのだ。「鳴るなり」かな?また法隆寺の鐘が聞こえてくるような不思議さもある。