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シン・俳句レッスン40

萩。萩は短歌では鹿とか雁の鳴き声と合わせて読まれるのに花札では猪になっている。そのへんが俳諧味なのかな?牡丹肉だから牡丹に猪の方がいいと思うのだが。萩は鹿だよな。

鹿鳴けば萩は散り落ち猟師撃つ

俳句とは何か

高柳重信

川名大『昭和俳句 新詩精神の水脈』から。

川名大の師匠が高柳重信なのかもしれない。

高柳が川名大に語った言葉。

俳句を志すには功名心がなければならないが、同時に俳句は功名心とはもっとも遠いところにある  高柳重信

川名大『昭和俳句 新詩精神の水脈』

高柳の行分け俳句が俳句なのかどうかはよくわからないけど、その言葉の力を感じることは事実である。

身をそらす虹の
絶巓
    処刑台   高柳重信

川名大『昭和俳句 新詩精神の水脈』

「絶巓」は「ぜってん」と読み山の頂。崖のような山頂か?そこに虹がかかっていて、のけぞる身と虹の刃の形が処刑台を幻想させるのか?宿痾の彼の内面の象徴であるという。

まだ行分け俳句に成る前の初期の俳句。

業平忌赤き蒲団のほされけり
秋さびしああこりやこりやとうたへども
あ・あ・あ・とレコードとまる啄木忌  高柳重信

川名大『昭和俳句 新詩精神の水脈』

業平と啄木好みは注目してもいいのかもしれない。業平は技術的なものが表現に結びついていた(折り句とか)。啄木は行分け短歌の創始者。それと音楽的な一行句。

風下の
森の奥の
老いの激しさ
かたつむり  高柳重信

川名大『昭和俳句 新詩精神の水脈』

高柳重信は胸を患っており、この頃は始終危篤状態で宿痾の身体を抱えていた。そのすがたを「かたつむり」に象徴させているのだ。

富士は
白富士
至るところの
富士見坂  高柳重信

川名大『昭和俳句 新詩精神の水脈』

場所の引力は季語だけではないという。またリフレインによって音楽性も。

覚醒め
がちなる
わが尽忠は
俳句かな  高柳重信

川名大『昭和俳句 新詩精神の水脈』

百句燦燦

塚本邦雄『百句燦燦 現代俳諧頌』から。まず高柳重信をどう読んでいるのか?

まなこ荒れ
たちまち
朝の
終わりかな  高柳重信

高柳重信の著作に『大宮伯爵の俳句即生活』という寓話的俳句論に触れてネルヴァルの詩との関連性を述べている。それは太陽の黒点(恋人に喩えられる)を見てしまったためにそれ以後盲人になって、恋ができなくなってしまう。原初の美的な感覚が強すぎて自分自身は滅びていく者に過ぎないという感覚。

火傷して繚乱と差す冬の芥子  野澤節子

野澤節子は脊椎カリウスの病の人生の中での境涯俳句か?冬の芥子をアイスランド・ポピーとして、それも水性の青い花は神への献花として、火傷と対を成す。火傷が病気の喩えなのか、火神サラマンダーを自身の内に抱えているという解釈。

父酔ひて葬儀の花と共に倒る  島津亮

島津亮は西東三鬼の弟子に当たる人で「共に倒る」は最初「共倒れ」となっていたのを三鬼が改作したという。それによってスローモーションの情景が広がるというのだが、「共倒れ」は一緒に倒れるのに「共に倒る」は父がよろけて倒れていくイメージか。

流燈やひとつにはかにさかのぼる  飯田蛇笏

蛇笏は泉鏡花風の霊界俳句としての特徴を上げる。「流燈や」の切れ字に幽霊を見るのだ。

枯菊のもゆる火中(ほなか)に花触れあふ  天野莫秋子

「天狼」に彗星のごとく現れた俳人だったらしい。「枯菊のもゆる」が「枯菊や」であったら結語は連体形「花触れあひ」になって火の燃え上がる速度が遅くなると言う。「枯菊」が「火中」に投じるとすぐに燃える花となる。またこれが「曼珠沙華」だと出来すぎであってリアリティがないとする。

君はきのふ中原中也梢(うれ)さみし  金子明彦


「金剛」という排誌で偶然見つけた俳人であるという。いきなり「君」は主観を廃する俳句には珍しいような。それに自己のナイーブさを中原中也に託して述べている。短歌的なのかもしれない。後に小説家に転身したという。

みちのくの星入の氷柱吾に呉れよ  鷹羽狩行

草田男の「梅雨の夜の金の折鶴父に呉れよ」の本歌取りだという。草田男の句を上回っているのは、「みちのくの」のひらがな書きと星入の氷柱の浪漫性は、同性愛的であると読むのだ(「みちのく」に釈迢空の幻影か?)。「天狼」系の俳人は浪漫的?

山の冷猟男(さつを)の體軀同じ湯に  森澄雄

「猟男」は猟師だろう。山の温泉に様々な人が入りに来るそこにたまたま居合わせるのだが二人だけの同じ湯の中で同性愛的な感じなのか?「山の冷猟男」を神話の山彦と幻視しているのが面白い。同性愛的というよりも山彦は幽霊のような感じなのだ。

金魚大鱗夕焼(ゆやけ)の空の如きあり  松本たかし

初出は「ごとくなり」。下五の違いで凡作か十指に入るかほどの違いがあるという。それは歌人としてだった。「大鱗」の造語もいいという。「大輪」なのか?岡本かの子『金魚撩乱』と双璧だという。

いま
俺を
優しく殺す

雪の樅(もみ)  若山幸央(ゆきなか)

行分け句は高柳重信の弟子と見られその鎖を解くことは出来ないという。それを逃れるために一度自身を殺してから、ふたたび「雪の樅」として復活させる酩酊感という。行分け句は、そうだな模倣に見られるから使えないというのはそうかもしれない。だから五行詩。この若山幸央の俳句は夭折した叔父桂四郎に捧げられているという。

NHK俳句

夏井いつき先生。やはり説明が上手いんだよな。わかりやすさで言ったら一番だと思うのだが、それだけで説明つかない部分があると思うのだ。例えば散文は当たり前だというが、当たり前じゃない散文もある。まあ韻文で作るのがセオリーになっているのはそういう世界に馴染んでしまっているからだろう。そう言えば知らずに歴史的仮名遣いになってしまうのは、過去作を筆記する際に自然と組み込まれてしまうものなのだと思う。俳句は短いからそういうことは無意識的なのでむしろ怖い気がするのだった。

兼題は「流れ星」。まあ凡人よろしく「星に願いを」とかすぐイメージした。一つは切れが大切だと。もう一つは散文にならないこと。ただ入選句に三句切れがあったけど、どうなんだろう。そういう細かいところも気になってしまうというか伝統俳句に毒されているのかな。三句切れが駄目だというような。あと「流れ星」で切れるなら、「かな」で切れがあるのは通常では駄目なんじゃないかな。そのへんがよくわからなくなってしまう。そもそも何で「切れ」があるかだよな。「かな」はかなの前の名詞を強調する。だから「流れ星」で切れるとどっちが重要なのかということだろうと思うが、そのへんがあいまいだった。

流れ星なくて七癖北斗拳

北斗流星拳とかイメージしてそんなもんアルかい!という気持ちか。諺的な言い回しは良くないのだった。

流れ星流行遅れの北斗拳

この程度だった。

夏井いつきさん「おでん」、山田佳乃さん「薬喰(くすりぐい)」~10月16日(月) 午後1時 締め切り~ 


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