シン・俳句レッスン7
今日の一句
ランドマークプラザでポケモンカード展がやっていた。100万するレアカードを盗難したというニュースがあったがアホみたいだ。その罪で罰を受けるんだから。自分に取ってはほとんど価値がない紙なのに100万てどういうことなんだろう。永久に続くものでもないしブーム的なものに100万を出す者がいる。さらにそれを盗む者までもがいる。その罪は重いのか?
貨幣経済もヴァーチャルだから、値段なんてあってもないようなものだ。そういうときに仏教の話を聞くとコロっと騙されてしまうような気がする。
「高橋源一郎の飛ぶ教室」で、『ブッダのことば:スッタニパータ 』の話が出てきた。「犀の角のようにただ独りで歩め」の話が出てきた。
ほとんど自分の価値観だけで生きている。独居老人の話だったのかとも思う。今日の一句。
水原秋櫻子と「馬酔木」
水原秋櫻子は「馬酔木」を創刊した人。最初は「破魔弓」という「ホトトギス」系の雑誌だったが、水原秋櫻子を中心に反「ホトトギス」となっていく。それは4Sと呼ばれた、秋櫻子と山口誓子は都会的、高野素十、阿波野青畝は伝統的俳句であった。素十の作風がもっとも虚子に近く四季折々の自然中心とする風物を客観的に詠むとスタイルだった。秋櫻子や誓子は虚子のように考えず、秋櫻子は抒情や主観を誓子は構成法や都会的素材を重視した。
虚子は秋櫻子や誓子を差し置いて素十を称賛した。そして、秋櫻子は抒情や主観などの文学的要素を重視するとして「ホトトギス」の権威に反旗を翻した。それは新興俳句の大きな契機となったが、根本的な違いは秋櫻子は有季定型に拘り感動を調べによって表現することを主眼として置いたという。
秋櫻子の流麗な調べは「の」の使い方や切れ字「や」を使っても切れ続く調べにあるという。それが叙情的と言われる調べだった。「馬酔木」の系譜は抒情の系譜と言ってもいい。
この時期に「馬酔木」の大乗的な句集に秋櫻子『葛飾』と並び称されるのが窓秋『白い夏野』である。
秋櫻子の特徴として都市近郊の郊外の情景や過去の追想が抒情性(喪失した世界の追想だろうか)を詠む。
渡邊白泉
今日も川野大『渡邊白泉の100句を読む』から。
読書メーターのハンドル名が「かふ」だった。(カフカから付けたのだが)。そういう関係からもこの句は凄い印象的だった。その前に「赤く青く黄いろく黒く戦死せり」という句があったのだが、この句と関連していたのだろう。
「白き馬」は「支那事変群作」五句の最初の句。他の四句は、
これらの句を踏まえると「白き馬」が「紅き馬」になるのは血染めということがわかる。「赤のリアリズム」という句か?
「繃帯」の句も、「支那事変群作」の第八章「野戦病院」の中の句だという。白泉は、自分の俳名に「白」を使っているだけあって「白」が出てくる句が多い気がする。「白」の幻想的イメージ。これも他の句との関連性が強いのだ。
看護婦の幻影を見るのだが、兵士たちの押さえれたリビドー(性欲)が見せたものだという。それだけで物語詩のような連句であるようだ。白泉はもっと評価されてもいい。
NHK俳句
今日は高野ムツオ選の句合(句会)でけっこうこれは面白かった。テーマは「噴水」。
パッとしない句のように思うが「白ワンピース」が句跨り。さらにそれは「幽霊」かもしれないと作者の言葉に驚く。確かに、五七五で詠むと「人を待つ白」「ワンピース」となるのだ。白だけだと幽霊のようにも読める。そして「ワンピース」の幻影は出たり消えたりする噴水に通じるのだ。ゴーゴリ『外套』じゃないか?
どう表現するか
岸本尚毅『俳句のギモンに答えます』から「どう表現するか」。これも五七五の有季定型だったら、それを外れない程度に好きに読めばいいと思うのだが、俳句に少し詳しくなるとやれ季重なりとか同じ言葉が重なっているとか言われる。
そういう一般人には気が付かない結社の先輩にとか言われる駄目句みたいなことについて岸本尚毅は論理派だから理論的に説明してくれているのだが、これが結構面倒くさい。
こうゆうのはセンスなんだと思う。俳句としてのセンスがないといわれてしまえばそれまでなんだが、例えば直喩にしても「如し」はゴツゴツした感じだから「やうな」の方がいいとか。そういう刷り込みがあると「如し」は何でも駄目なように感じてしまう。「如し」の名句もあるのだ。
また比喩も一般的に俳句では歓迎されないのは、写生という観察がわかりやすく比喩だと言葉の経験値によって左右されるからだろうか?
その他にも感情を表す形容詞(美しい、寂しい)は避けるべきとか。助詞の1字の重みとかうんざりしてくる。そういう固定観念を持つと言葉の流動性(もともと言葉は不変ではなく変化していくものなのだ)に鈍感になる。だから言葉だけで判断して良し悪しを言う。
先日の歌会でも言葉の繰り返し(短歌にはリフレインという技もある)のに言葉が重なると指摘されて興ざめになった。それは最初の言葉と後の言葉では同じ言葉でも時間のズレとして違う変化を意味していたのにそれが読み取れていない。まあ、そういうことで減点させられるなら、もうその歌会には参加したくなくなる。違う人が意味があるということを言ってくれたのは良かったが、そういうのはセンスの問題だから分かる人にしか分からないと思うのだ。
だからここで言われている表現もそれに囚われるなと言いたい気持ちだった。悪しき言葉が固定したものと考える人の伝統だった。この本がそういう体裁で出来ているからしょうがないのだが。
初めまして現代川柳
俳句が嫌になったら川柳に行けばいい。現代川柳も面白いというコンセプトで息抜き的な。俳句界だけ見ていると狭い世界に陥ってしまうから。今日は「現代川柳の展開」から。
くんじろうは「詩のボクシング」のチャンピオンにもなった川柳人だった。五七五を基本に聞き手の共感を得るというか唖然とさせる句が多いような気がする。
「百人の村」は本が流行ったよな。実際はそんな村があるわけがないのだが架空を楽しむのだ。女子は五人に一人かよとか?
滋野さちは風土も社会性も描ける川柳人だという。囚人なのは米をとぐ自分に対しての自虐なのだろう。
清水かおりは観念的な言葉を日常の短詩として詠む人のようだ。
筒井祥文は逆に古典語(今は使われない)を使い川柳を芸(第二芸術論の俳句以下の川柳)として楽しむ。
中西軒わは川柳も盛んな松山で活動する川柳人。「GOKEN」という野球拳の創始者の川柳人前田伍健の名前を付けた伝統川柳結社があるようだ。
なかはられいこはポップス系川柳の書き手だという。