シン・俳句レッスン133
蓮の花
やっと睡蓮と蓮の花の違いがわかった。水面ぎりぎりに咲くのが睡蓮で茎を出すのが蓮なのか?「シン・俳句レッスン123」蓮の花にしたけど睡蓮かもしれないな。
蓮の花で一句。
「蓮の花」というジャズがあったと思った。シドニー・ベシェをおもいだしたのだがあれは「小さな花」だった。ケニー・ドーハムのジャズにあった。
そのイメージから。
これでいいか。ただこれだとまだ蕾だな。
究極の俳句
『究極の俳句』髙柳克弘。また同じ本を借りてしまった。「究極」という言葉に弱いんだと思う。これが「究極の俳句」かと納得したかったのだろう。
はじめに言葉を疑うことから書かれているのだがその例題に虚子の白牡丹の句である。
「紅」は「こう」と読ませている。「べに」だと思っていた。「いふといへども」が回りくどくないか?「白牡丹」の白を疑えということなのだが、虚子の方は疑わなかったのか?これは虚子が写生で観察した結果出来た写生句の名句とされるのだが、実際に白牡丹を検索して画像を示してみると圧倒的に白だけの牡丹が多い。
なぜ「紅ほのか」に感動するのか?それは虚子であるということの言霊の力なんだと思う。そう言葉で思わされているのだ。そして「紅ほのか」の画像の牡丹は確かにあった。中島千波の絵である。つまり虚子は実際の白牡丹よりも絵を見て作ったのではないか?正岡子規が写生の方法としたのは絵画の手法としての創作方法であった(日本画ではなく写実主義の西欧画)。例えば屏風絵から歌を作る『古今集』の歌は否定していたのだ。虚子の句が絵からだとするとまさに正岡子規を裏切ることにはならないのか?
それ以上に虚子がこの句を絶賛する多くの俳人がいるのに驚く。誰か否定的なことを言う輩はいないのか?言葉を疑えというのはいいとして、その作者は疑わないのか?
もう一つ芭蕉の超有名句。
これも其角が上五を「山吹や」にしたのを芭蕉が却下して「古池や」にしたことを称賛される。「古池や」はないんじゃねえ、廃墟の池に蛙かよという意見はなかったのだろうか?「山吹や」にすることの明るさがいいと言う意見もあったはずである。しかし芭蕉ごときに反論するのもどうかと思う。これはイメージの句なのだという解説までなされる。
虚子の句と芭蕉の句ではまったく違うことを詠んでいる。それでも両方名句ですねと感動できるのは、俳句以前に名前の力や言霊の力があるのではないのか?昔から言われてきたから名句になると。何故、名句なのか思考したのだろうか?
現にここに書かれていることさえ疑わないのである。
まず人を疑ってみてはどうかと思う。
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