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シン・俳句レッスン93
「春節」。今日だった(10日書き始めたのだけど時は止まっていてはくれない)。グーグルで「春節」を検索すると面白い。今日だけかも(昨日だけだった。花火をイメージするFlash映像があったのだが)。あまり春節には関係ないのだが、春にはると森田童子を聴きたくなる。
結局森田童子って抒情歌なんだよな。極めて日本の四季に委ねて自分の気持を感情表現している。そこにある種の懐かしさがある。この話題は俳句よりも短歌かもしれない。「シン・短歌レッスン」に移行。
春節や失敗を重ねる僕と君 宿仮
孤独の俳句
金子兜太・又吉直樹『孤独の俳句 「山頭火と放哉」名句110選』。今日も山頭火。
ふるさとの言葉のなかにすわる 山頭火
ふるさとが無いというのは何なんだろう。東京がふるさとなのかな。今は家もないのに。横浜はふるさとでもないし、ふるさとという言葉を消去したい。
わが辞書にふるさとは無い時鳥 宿仮
時鳥もいないからな。托卵みたいな親がいい加減だったから?
どかりと山の月おちた 山頭火
最近月も見ないよな。今はどこに出るのだろうか?今は新月なんだ。
新月やかぐや姫も迷子なり 宿仮
忘れていたが月百句どうなったんだろう?後で確認する。
なあつめたわゝにうれてこゝに住めとばかりに
其中庵の近くに棗がたわわになっていたのでそこに住んだのだと。けっこう甘ちゃんである。なつめは食べられる植物なのかな?
薬用の実なんだな。やっぱ柿のがたわわになっているところとかの方がいいのかもしれない。前日に「柿たわわになる」と句を作っていた。山頭火の心の中にはそういう欲望はあったのだ。芭蕉の句を想起したとか。
先(まず)たのむ椎の木も有夏木立(ありなつこだち) 松尾芭蕉
芭蕉の方が上手いな。
春待ち小町を待つ有夏木立(ありなつこだち) 宿仮
蠅も移つてきてゐる 山頭火
いや、蠅は最初からそこに居たんだろう。移ってきたのは山頭火の方。「朝夕、山村の閑静満喫。虫、虫、月、月、曼珠沙華、々々々々。・移つてきてお彼岸の花かざり」と日記に記していた。なんか楽しそう。
蠅の句を作りたいな。句会が虫で詠むということだった。春の虫ってなんだろう。蝶だろうが蠅を際立たせたい。
花一輪、蠅も移つてきてゐる 宿仮
こういうのだよな。雅と俗の世界。
其中一人として炎天 山頭火
夏の暑いときに托鉢しているのかと思ったら「其中庵」という家の中にいたのか?炎天というのはおかしいのではないか?
菜の花咲いた旅人として 山頭火
「其中庵」から旅立つ句だが、四回も旅立つとあるから戻ってきたのか。急性肺炎にかかり入院したんだ。それなら仕方ないか?旅でも病には勝てぬ。
死んでしまえば、雑草雨ふる 山頭火
気持ちとしてはそういう心持ちだったのだろう。句読点が入るからその問いは保留して、雑草を見ていたという。自殺を図ったときの句だという。
あるけばかつこういそげばかつこう 山頭火
「かつこう」で急かされている感じだが、それほど急げない気持ちなのかな。これは山頭火の名句であっちこっちからカッコウの鳴き声の中を歩いているという句だという。
うれしいたよりが小鳥のうたが冴えかへる 山頭火
息子から子供が生まれたというたよりだった。「冴えかへる」が親の気持ちになったのかな。生きる喜び。山頭火は感情が激しい分喜怒哀楽の揺れも激しいのだろう。
冴返る球を空振り人生 宿仮
旅も一人の春風に吹きまくられ 山頭火
四度目の旅だという。喜びに満ちているな。
NHK俳句
小島慶子を久しぶりに見た。昼のラジオで活躍しているときに、よく聴いていたが、なんかの事情でラジオを止めていた。それから暫くTVにも出ていたようなのだが、あまりTVも見ないんで。NHK俳句のゲストとして。針供養で雨が針のようだとコメントしていた。頭がいい人なのだろうと思う。女子アナというポジションが気にいらなくフリーになって、ラジオは出入り禁止になったのかな。上の事情はよくわからんけど。
ラジオっ子春の電波は受信する 宿仮
なんか森田童子を知ったのも深夜ラジオだった。懐かしい。
これを聴いたのは林美雄の深夜放送だったのか?
現代俳句の海図
小川軽舟『現代俳句の海図 昭和三十年世代俳人たちの行方』から「中原道夫」。このへんの俳句が良くわからないのは、俳句特有の表現であってある程度訓練したものにしか伝わらないのかもしれない。内輪的なものへの始まりのような気がする。
それは団塊の世代(全共闘世代)への反省としての「知と情」ということなのだがそれが内輪として俳句世界だけしか通用しない言葉になっているからだと思う。
白魚のさかなたること略しけり 中原道夫
これが中原道夫の初期の代表作とされるのだが、俳句をやらない人がこの句に感動するだろうか?解説を読むと「白魚の」と「さかなたる」がサ行の音韻であることで短詩として記憶しやすい。「白魚」といえば室生犀星か?
その「白魚」を「略しけり」という下五で受けている。それは描写ではなく、白魚ののっぺりした様を述べたのだという。それが作者の時代の風潮と重なっていくのだ。そこまで説明されるとなんとなくわかった気になる。つまり解説を必要とする詩なのではないか?そこが「知」という訓練されたものしか届かない俳句なんだと思ってしまう。
中原道夫が社会と個人の闘争=逃走の中で彼自身が見出した場所が俳句という内輪だったのか?そんな感じの句である。
もう一つ代表句。
飛込の途中たましい遅れけり 中原道夫
これも上五と中七で頭韻を踏んでいるのが俳句としてのポイントで下五の「遅れけり」の解釈にかかっているのだがよくわからん。「たましい」というから、多分全共闘世代のことなのかもしれない。そこで個人の自殺が言い表されているのかな。全共闘世代には回収されない個人みたいなものなのか?大江健三郎『遅れてきた青年』を連想するが。
ただ大江健三郎の小説を読むほどの感動があるだろうか?なんか弱い気がする。
天使魚の愛のうらおもてそして裏
これは面白いかな。「天使魚」は想像の産物か?人魚的な。違うわ。エンゼルフィッシュだった。その獰猛さはエンゼルフィッシュを飼った人ならわかるだろう。およそ愛らしくない魚なのである。でもそれは人間が勝手に決めつけたことで、もともとの天使は悪魔として、神に従属させられし者だったと思えば、この理屈も通るかな。
著者の解釈は性交を表しているという。そうなのかな。まったくそういうふうには読めない。それが俳句の卑属さ(行為)と聖なるもの「天使」という言葉だと解釈するのかな。なんかそこは裏返しみたいな気がする。
そして彼の頂点とする俳句。
颱風の目つついている豫報官 中原道夫
旧字を使う時点で拒否反応を起こしてしまう。「颱風」の句は読めるが、『顱頂』これはなんと読むんだよ。まったく意味が通じない。むしろ易しくはないのだ。「ろちょう」という頂きのことで、だから頂点なのか?そんな頂点は望みたくない気持ちなのは、結局わかる人にしかわからないからだろう。検索すればわかる。確かに。でも最初の印象としてのインパクトがなくやり過ごしてしまうだろう。記憶させるには難しすぎる内輪の言葉だと感じてしまう。
褒美の字放屁に隣るあたたかし 中原道夫
だから諧謔性しかないのだ。結局自己を諧謔して優越感に浸っているような気がする。そこから俳句日記のように俳人になっていく。
口寄せに呼ばれざる魂雪となる 中原道夫
本のタイトルは難しすぎて読めなかった。「口寄せ」というのはそういうことなのかなと思ってしまうのだ。難解漢字で人を引き付けて、結局言霊しかなく彼の魂は雪のように覆われていくのだろうか?
俳句の読みとしてはこのへんの批評なんだろうけど。やっぱ「言霊」思想では駄目な気がしてしまうのだ。それが幻想だと本人が意識しているのならいいのだが。大江健三郎を簡単にしてしまったような感じだけどそれでは駄目なのは中心に祀り上げられてしまうからだろうか?でも「口寄せ」の句はけっこう本質を突いているかもしれない。
天の川銀河発電所(現代俳句ガイドブック)
佐藤文香『天の川銀河発電所 現代俳句ガイドブック』から。阪西敦子。
松分けて来るは光の秋の海 阪西敦子
ぜんぜんわからん!「ホトトギス」派は季題を中心に置いている。つまりここでは「松分け」ということか?松が正月の季語だから新春の光を詠んでいるのだと思うが「秋の海」という彼岸になっている。「秋の海」が季語なのか?よくわからないよな。そうか松分けは正月の準備のために秋に行われるから来る光は秋の海(彼岸)から陽が昇るという感じなのか?面倒な句だった。つまりこれは俳人仲間の仕来りみたいなものを知らないと理解し辛いと思うのだ。まさに内輪の句だと思う。
桜蘂降る駅遠く家遠く 阪西敦子
「桜蘂降る」がもう読めないし、検索するにもどうしたらいいのか?これが季語だと当たりを当たってどうにか検索したがわからない人には永遠に通じないと思う。こういう内輪言葉が暗号のようで嫌だった。
ひんやりと手鞠に持たれをりにけり 阪西敦子
漢字を読めても理解に遠い。「ひんやりと」が冬の季語。外で遊びたいけどその手鞠さえ冷たく感じたということかな。それがどうした。私も冷えているということなのだが。だからこういう句はイライラする。冷え性なんだろうとか、言いたくなってしまう。みんな冷えているのだ。
今俳句の世界で新しいと言われていることが何かを知っていて、で、伝統俳句といわれている「ホトトギス」で何がいいかっていうのもわかっていて、その両方を達成するために俳句を書いている人だと。 佐藤文香
その意見に賛成だった。内輪にしか届かない句だと思う。こういう句に関わると俳句を作ることも忘れてしまう。イライラしているので、今日はここまで。
ラジオっ子春の電波は受信する 宿仮
冴返る球を空振り人生 宿仮
春待ち小町を待つ有夏木立(ありなつこだち) 宿仮
春節や失敗を重ねる僕と君 宿仮
わが辞書にふるさとは無い時鳥 宿仮
今日は駄目な日だった。ほとんど10日の句だ。