シン・俳句レッスン82
初雪。日記の一句。
初雪と七福神の呪いは結びつかないよな。
これはいいかも。宴会やっている感じ。雪見にいっぱい。
隠岐は流刑地として中世より歌人たちの歌が知られていた。
この時代の俳人はろくな死に方してないな。
俳句の達人(能村登四郎)
ほんと知らない俳人が沢山いる。
この言葉は俳人は「主催誌」を持って一人前(プロ)だみたいな。当時はネット文化ではなく、情報も書籍だけだったから主催誌(同人誌)を出せばそれなりに人が付いて生活できたようだ。昔は、俳人が喰っていけるなんて考えられず、家を潰すか山頭火のように漂泊するかだったような。境涯俳句は波郷あたりなわけで、今はそういう時代じゃないと。もっともな意見だと思う。
『俳人風狂列伝』(高橋鏡太郎)
『俳人風狂列伝』石川桂郎より。俳句がビジネス以前の浪漫であった時代の俳人。もう壮絶な人としか言えないような。当時結核が流行っていて、あまりにも病院が居心地がいいので(三食昼寝付きみたいな)で退院が決まった朝に他人(結核患者)の血痰を飲んだとか言う伝説。あと飲み屋で誰彼となく酒をたかって友人になるとか、昔はそんな人もいたということを聞いたが80年代になると天然記念物並の絶滅危惧種だったような。辛うじてそういう人に出会ったことはあるが友達にはなりたくないな(飲めないし)。
今はほとんどそういう人は生き残れないんじゃないのか?山頭火タイプの俳人。
俳句いまむかし
坪内稔典『俳句いまむかし ふたたび』から。
春
「ホウレン草」とポパイの関係性は今では希薄だろうな?というかアメリカにはホウレン草の缶詰があったこと自体驚きで食べたいと思ったものだった。
小学生の句だと思ったら大人だった。いまいち意味がわからないが、タンポポもウィルスのようにどこへでも拡がっていくということだろうか。従兄弟の漢字は従姉妹や従兄妹のほうが好きだった。「又従兄弟」か。そこまでは知らないかも。大家族の家なんだろうな。何気ない言葉で生まれが出るかな。
ホウレン草の茎の赤い部分か。なんとなく分かるような。この俳句は上手い。
「からし菜漬け」がよくわからん。普通は「哲学的葉脈」のほうだとは思うのだが、~的という言葉を俳句に使うのが面白い。それも哲学的だった。葉脈は哲学の系譜みたいなものかな。からし菜は、どのへんかな?小松菜の孫あたりか?叔父さんが高菜だったりして。
雪片は雪の結晶。
「花菜」は京都ブランドの菜っ葉だった。この俳人も英国製のスーツを着るブランド人間だったとか?たかが菜っ葉である。そう言えば菜菜菜という女優は好きだった。間違えた。菜葉菜(なはな)だった。
正しくは菜 葉 菜 なのだそうだ。
煮てしまえば同じかな。そうでもないか?
「真砂」は砂なんだが、ここでは上品な感じの砂を噛みしめる感じか?いや、逆だった。岩海苔が野生のものだった。「噛みあてし」という文語が上品な感じなんだと思う。
海苔にお湯を注いだだけのお椀なのかなと思う。浅黄椀が京都のブランドお椀だった。なるほど、俗から雅な世界へ。さすが師匠!
この句の中にドラ・トラ・ノラ・ミケと4匹いるという。季語は「猫の恋」。破調だった。
でも十七音だから句跨りになるのか。変拍子テクニックだった。
猫は詩になる。朔太郎の「猫」の詩も紹介していた。
「雛壇」ってお雛さまのことか?教壇かと思ってしまった。雛壇を片付けるその過程で何も置かれていない雛壇の静けさの佇まい。上手いな。リフレイン効果もある。
「草の戸」は粗末な庵で雛の家はそれを雅に言い替えたものだろう。稔典さんの解釈はお雛様のことを言っているとするのは家族持ちとそうでないもの違いだろうか?次の家族は雛を飾るのだろうという旅立ちの句だとか。