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人を殺めし人の真心草茂る

『棺一基 大道寺将司全句集』

確定死刑囚として37年に及ぶ獄中生活を送る大道寺将司の全句集

棺一基(かんいっき)
四顧(しこ)茫々と
霞みけり

十七字において、かれは塗炭の苦しみをなめつづけ、十七字においてのみかれは、極限の個として、ひと知れずやっと自由なのだ。供述調書より起訴状より判決文より、較べるもおろか、句群にこそかれの真情は巧まず塗りこまれている。俳句にいまや全実存を託したのだ。
――辺見庸「〈奇しき生〉について 序のかわりに」より

大道寺将司は、東アジア反日武装戦線の"狼"部隊のリーダーであり、お召し列車爆破未遂事件(虹作戦)及び三菱重工爆破を含む3件の「連続企業爆破事件」を起こし、1975年逮捕、1979年東京地裁で死刑判決、1987年最高裁で死刑確定した。本書は、30年以上も死刑囚として、また血液癌と闘いながら獄中生活を送る大道寺将司が詠んだ1200句を収録した全句集。
本書出版にあたっては、作家であり(芥川賞受賞)詩人でもある(中原中也賞、高見順賞受賞)辺見庸が全面的に動き、実現させた。また辺見庸自身も脳溢血で倒れた後遺症と大腸癌と闘っている。
辺見庸による跋文では、二人が句を介して知り合い、面会を実現させ、血液癌から来る痛みに句を詠むことを諦めかけた大道寺を「とにかく書け」と励まし、全句集を実現させるまでの経緯が感動的に描かれている。

同じ死刑囚でも坂口弘の短歌と大道寺将司の俳句は違う。それは短歌と俳句の形式的な違いだろうか?と思った。坂口弘の花は献花として他者(死者)に対する短歌の言葉としての花なのだが、大道寺将司の花は自身を託す枯尾花とか破蓮なのだ。それ以上に虫の句が多い。俳句の季語がそれらの言葉の題詠として機能するからだろうか。編者の辺見庸のあとがきに無季の句と季語の句として

懐に出面ある夜ちんちろりん

という句の解釈で「出面」は日雇い人夫の給料で、この「ちんちろりん」がサイコロ賭博なので、そこに全給料を賭けてしまう大馬鹿者の一行詩なのである(無季の句になる)。「ちんちろりん」を虫の意味だと有季になり俳句のわびざびの趣も出てくるという。大道寺将司の俳句は、牢獄という環境で花や虫の俳句を詠むというのは季題をイメージして外の世界を詠むことなのか。

もう一つ「虹」のイメージ。これは大道寺将司が起こしたテロともう一つの天皇暗殺計画の作戦名「虹作戦」なのだが失敗していた。

辺見庸は大道寺の墓参りにその虹を見たという。虹の向う側をまだ見ぬ黄泉(未来)としてそっちの世界に入りこんでしまったという。それは大道寺将司が見た涅槃の花(架空の国)なのだ。もっとわかりやすく言えば「狼」という言葉のイメージ。「日本狼」は滅んで自身が狼の化身なんていうのはどうかしている。ただ大道寺はそういう「狼」の遠吠えで同志を求める。

狼や のこんの月を駆けゐたり 大道寺将司

狼は日本では滅んでしまった。しかしどこかにそんな狼の血筋がないのかと同志を求めるのだった。それは日本だけではなく対外的にアフガニスタンやパレスチナに同類(テロリスト)を求める姿でもあった。

冬ざれの空アフガンに続きをり 大道寺将司

俳句というコミュニケーションを考えた時に季語というイメージから自身の空間(領土=牢屋)を詠むということなのかと思う。

人を殺めし人の真心草茂る 大道寺将司

殺人犯の心境を真心なんて詠むのはどうかしている。そこに「草茂る」のである。ネットスラングでは「草(くさい)」ということになるのだが。そういう時代錯誤の虹の夢を追いかけている狼なのかもしれない。


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