見出し画像

後輩書記とセンパイ会計、 縁切の樹木に挑む


 開架中学一年、生徒会所属、有能なる書記のふみちゃんは、時代が違えば明治の落語の大家、人情噺や創作怪談の名人、初代三遊亭圓朝の寄席に通うほどの仲にだってなれただろう。ふみちゃんは小学校時代、毎年夏の圓朝まつりで芸人屋台巡りを楽しみにするほどの上級者だったらしい。三遊亭という一門はテレビでも目にするが、三遊派は三遊亭だけでないとか、あるいは圓朝は言文一致体を完成させたことで近代日本語の祖とも言われるとか、二葉亭四迷の口語体文学に影響を与えたとか、知らない日本語の世界をふみちゃんに浴びせられながら、外のベンチで一緒に日本茶を飲む一年先輩の生徒会所属、平凡なる会計の僕は、およそ吊り合わないほどの落語知らずで、数学が得意な理屈屋で、昔の落語では眼鏡はタブーだったと聞いて眼鏡のレンズを軽く拭く程度だった。

 十月三十一日、お店などはハロウィンという雰囲気だけど、ふみちゃんとしては日本茶の日という認識らしい。ふみちゃんによると、鎌倉幕府が開かれた年に高僧・栄西が中国から茶の種子と製法を持ち帰ったからだそうだが、普段日本茶を飲まない僕には縁がなかった。お茶は飲む人はよく飲むし、飲まない人は飲まないと思うのだ。
「数井センパイ、甘いものが欲しいとき、欧米ではいたずらするぞ! と脅しますけど、日本人はまんじゅう恐いと言うのが基本です」
「そうなのかな」
 そんな日本人見たことない。たぶん、ふみちゃんの言う日本人は古典文化に精通した人だと思う。基本ではない。そんなふみちゃんは背が小さく、つやつやした黒髪を両サイドに自然に分けて、白いリボンを結んでいた。切り揃えた前髪が素朴というか幼い印象を与える。
「『まんじゅう恐い』の後に『お茶も恐い』と言うんです」
「熱いからね」
「数井センパイ、違います。恐いと言われたら差し出すのが日本人らしい茶目っ気なんです」
 なぜ、秋も深まる季節にひたすら古典落語の話を聞いているかと言うと。実は数日前、生徒会室に入ると、女子副会長の英淋さんが、茶柱が折れたかのような暗い表情をして黙り込んでいたのだ。横にはふみちゃんもいた。
 ちなみに、英淋さんは僕と学年は同じだが、留学経験があるため年齢はひとつ上で、いつも他人への思いやりに満ちた優しい性格である。海外で日本文化に詳しくなったそうで、日本の伝統文化に関してふみちゃんとも話が合うのだが、その日はとにかく英淋さんがひとり深く沈んでいて、ふみちゃんも話しかけにくそうだった。助け舟が要るらしく、生徒会室に来た僕の目をじっと見入ってくる。
「何? どうしたの?」
「数井センパイ、英淋センパイが男女の仲を終わらせたいそうです」
 さっぱりわからない。ほとんど説明になってない。僕に言われても困る。
 すると、机にうつぶせだった英淋さんが思わず顔を上げた。僕が入って来たせいもある。
「ふみちゃん、ちょっとニュアンスが違う」
 ちょっとじゃなくて、たぶん相当違う気がする。
「男女が二股に裂けてるんでしたっけ?」
 地下牢の怪人の目撃談みたいな言い方だった。ふみちゃんは文章を書かせたら一級品の腕前だが、いつも言葉の説明があまりにも大雑把か、あまりにも余計な周辺知識が多いかの両極端だった。
 それよりも、意外だった。恋愛関係の話っぽいのは、家族想い一筋の英淋さんにはすごく珍しい。英淋さんは苦笑してきちんと姿勢を正す。律儀な人だ。
「数井くん、私の悩み――聞いてくれる?」
 あらたまって問われると、少し緊張する。
「もちろんですよ」
「私の友達なんだけどね」
 何だ、友達の話なのか。あまりにも良くあるパターンと言えばあるパターンだった。ふみちゃんは僕の横で、たぶん今日二度目となる同じ話を聞く。その割に僕よりも興味津々で前乗りなのは失礼な気もした。
 英淋さんの親友が彼氏に二股をかけられて、ショックで寝込んでしまい、もう三日間も学校を休んでいるという。確かに心配になるレベルだ。もうすぐ週末なので、土日で元気になるかもしれないが、英淋さんが悩んでいるのはそれだけでなかった。
「そんなサイテー男、別れちゃえばいいと思うんだけど、その子すっごい未練があるの」
 いつも心穏やかな英淋さんの口からサイテー男というきつい言葉が出てくるなんて。不誠実には厳しいというか、そりゃあ二股は誰だって嫌だけど。
「毎日ずっとメールしてるみたい。学校休んでるから余計に寂しいみたいだし、熱が冷めないからほんと何とかしたいの」
 僕は腕組みをした。難しい相談だった。裏切られたのだから普通嫌いになるもんだと思うが、結局その二股かけた彼氏に孤独を埋めてもらっているのか。英淋さんも親友にいろいろ助言したけれど、それでも未練が強くて心が離れないのだと言う。
 英淋さんは憂鬱な顔で考え込む。病気みたいね……と溜め息混じりにつぶやいた。
「この機会に別れないと、もっとかわいそうなことになるんじゃないかなって心配で。ねぇ、どう思う? 断捨離をすべきだと思うの」
 何となくその言葉は使い方がおかしい気がする。
「英淋センパイ、違います。縁切りをすべきです」
 ふみちゃんはガタッとイスから立ち上がった。勢い込んでいて思わず見上げる――ほどの背ではなかった。目線がちょっと上がった程度だ。
「縁切り?」
「はい。そういう専門の木があります」
 あまりに唐突な言い方で意味不明だった。すぐ英淋さんが聞き直すと、ふみちゃんは樹木の『木』と答えたのだった。そして、得意げに鼻を鳴らす。
「圓朝もお墨付きの、やってくれる木です」
 一瞬、園長と聞き違えたが、三遊亭圓朝という昔の偉大な落語家らしかった。で、うっかり圓朝って誰と聞いてしまったところ、ふみちゃんは圓朝と言えば牡丹燈籠とか何とか、夏は怪談物という風習のきっかけになった人物だとか語り始めて、僕は「後はわかる」と話を切った。何がわかるものか。
「ふみちゃん、木ってどういうこと?」と英淋さん。
「通称『縁切榎木』と言うんですが、ある神社に古い榎木が生えてまして、その木の樹皮を削ってお茶にして飲ませると、男女の縁切りをさせられるというものなんです」
「えっ、そんな木があるの?」
「あります」
 ふみちゃんは大いなる自信を持って頷いた。冗談みたいな話だと横から見ていたら、意外にも英淋さんはかなり興味を持ったようで真剣な顔つきになった。神社で縁結びは聞くけれど、縁を切るなんて何だかすごい話だ。女の子はどうしてこういう話が好きなんだろう。樹皮をお茶にして飲むとか想像するだけで口の中が苦くなる。
 榎木がある神社の場所は、ここから電車を乗り継いで二時間はかかるところだった。いくらふみちゃんが自信満々とは言っても、そんな場所に本当に行く気だろうか。
「二時間か……行き帰りだと四時間以上だね……」
「どうしたんですか?」と僕は問う。
「うん――実は、下から二番目の弟が今おたふく風邪にかかってて、すごい熱が出てるんだよね。学校は仕方ないけど、あんまりうちを離れられなくてね」
 家族想いの英淋さんらしいが、いつも弟たちが何かと病弱なのだ。そして、英淋さん自身もちょっと縁切神社を信じ過ぎな気がする。とにかく様子を見兼ねて、ふみちゃんがいきなり申し出た。
「英淋センパイ、わたし行きますよ」
 確かにふみちゃんなら場所を知っている。英淋さんのために一肌脱ごうという気持ちが強いのもわかる。だけど、行き先は二時間かけて行く神社だ。かなり遠くて心配だ。
「なぁ……僕も行こうか?」
 何となくの割り込み提案だった。ところが、ふみちゃんは即座に強く拒否した。
「ダメです。男女二人で行くと、そこで縁が切れるって言われます」
 ふみちゃんの口から男女という言葉が出るのが珍しく、けれども異常に切実な言い方だった。ただ、いくら何でも同じ学校で、同じ生徒会なのに縁が切れるとかは考えにくい。
「え、大丈夫じゃないの?」
「数井センパイ、違います。絶縁は――起きます」
 軽く投げたボールを全力で打ち返されたような、厳しい口調だった。変な緊張感が伝わってくる。英淋さんも縁切神社に興味を持ったことを後悔しているような微妙な表情をしている。だけど、英淋さんが何かにすがっても親友を守りたいのなら、できることを協力することも必要だろう。
「なら、僕が一人で行くよ」
「えっ……でも」
 ふみちゃんが戸惑う。実際、僕はこの中で一番行動すべき立場であり、事情がわからないなりに何か手伝いたい気持ちは十分あった。自分で考えた結果だ。迷いはない。
「大丈夫、一人で行くよ。ふみちゃんとの絶縁は嫌だ」
 生徒会室が、しんと静まる。
 ふみちゃんと目が合うと、小動物が逃げるように慌てて下を向き、学校カバンから小さなノートを取り出した。あわあわと手元が落ち着かず、ペンのキャップも外したら床に飛んだ。落ちたキャップも拾わず、縁切神社の場所を書き始めた。よく見ると筆ペンだ。ふみちゃんはそんなものを日常で使っているのか。
「……じゃあ、センパイ、お願いします」
 メモを渡される。一瞬で何も見ずに書いたとは思えないくらい驚くほど精密な地図だった。この後輩は何をどれだけ正確に記憶しているのだろうか。
「数井くん、どうかお願いします」
 続いて英淋さんも深々と頭を下げた。これが、数日前のことだった。

 いざ今日、十月三十一日。学校が休みの土曜日。僕はひとり静かに二時間かけて電車を乗り継ぎ、目的地の駅を下り、ふみちゃんにもらった地図を頼りに縁切神社へ向かった。家で昼ご飯を食べてから出たので、駅に着いたのは三時過ぎだ。
 道が狭くて下町みたいな古い町並みを歩くと、駅から結構近くだった。もちろん、地図でそれはわかっていたけれど、それでも神社ならもっと奥まった暗いところにあるかと想像したが、本当に駅のそばだった。こんな近くに――縁切神社があるのだ。
 境内には誰もいない。突き当たりの小さな黒い御堂の中にも人の気配はまったくない。
 そして、確かに話しの通り、一本の大きな木が立っている。正直、木の違いはあまりわからないが、これが榎木なのだろう。他に目立った木は見当たらない。例えば、白い紙や縄が巻いてあるとかでなく、普通の大木だった。神社の敷地が狭くて参道がかなり窮屈に感じる。太い幹の先にある御堂にはこの大木を避けて参拝するような形だった。
 無事に着いたことに一息つき、早速、古い石の小さな鳥居をくぐって、中に入る。秋だから参道の敷石に落ち葉がたくさん積もっていた。誰も掃除しないのだろうか。枯葉を寂しくガサガサ踏んで進むと、榎木の幹の奥にたくさんの絵馬が見えてきた。
 神社の絵馬というと、ふみちゃんの家も神社なのだが、健康祈願とか合格祈願とか恋人と一緒にいたいとか、そういう幸せを望むようなものが多い。けれども――この神社はまったく異質、まったく異様だった。『別れたい』『付きまとわないでほしい』『会社を辞めたい』『親と別居したい』といった重たい言葉の記された絵馬が無数に重なるほど棚にかかっていた。何なんだ、ここは。背筋が寒くなる。
 縁切神社というのは本当にふみちゃんが言う通りだった。しかも、縁切のご利益を頼って足を運んでいる人がたくさんいるということだ。暗い空気が境内を包み込み、僕は足をしばらく留めた。何だか奥へ進むのが恐い。いや、そうじゃない、僕はここへお参りに来たのではなかった。榎木の樹皮を削って持ち帰るだけでいいのだ。
 ギギギ、キイキイキイ、と絵馬が秋風に軋んで鳴いた。さらに一瞬、強い風が吹いたかと思うと、馬の鳴き声みたいにヒンヒンヒンと甲高い音を立てて鳴き続けた。もう早く帰りたい気持ちでいっぱいだった。大きな榎木に一歩近づき、カバンから樹皮を削るために持って来たハサミやビニール袋を取り出そうとする。
 いきなり携帯の着信音が鳴った。この音はメールだ。
 えっ、ちょっと、何だ――と文句を口に出しながら、ライトを頼りに携帯をカバンから取り出した。画面を見ると、送り主はふみちゃんだ。
『そこに何かいませんか?』
 はっ? 何だこのメールは? そのとき、背後でガサッと足音がして、僕は慌てて振り返った。
 そこに何か――いた。おい、何してるんだ、お前。
 見ると、境内の外の道に、私服のふみちゃんがぽつんと立っていた。襟にリボンがある黒っぽいブラウスと、ダークな赤と黒の柄が入ったスカートだ。夏はもっと爽やかで白い服が多かったが、秋は落ち着いた色の取り合わせだ。私服も可愛い。
「お前、何で来たんだよ」
 聞こえるように声をかける。
「あの、実は……」
 距離があって声が小さい。僕は入口へ数歩戻ろうとした。そのとき、ふみちゃんが脇に抱えた愛用のトートバッグから、花柄のしおりが飛び出して宙を舞い、そのままこっちに突進してきた。これを見るのは初めてじゃないが、何度見ても大きな虫がいきなり飛んできたみたいに悲鳴が漏れてしまう。
 いったいどういうことでしおりが宙を舞うのか全然わからない。理由を考えたくはない。とにかく、鼻先まで飛んできたしおりが僕の頭上をぐるぐる舞っているのが気持ち悪くて仕方ない。だけど、飛ぶ瞬間を何度か見ているので、これだけはどうしても否定できなかった。不安感が胸に募る。わざと声を出す。
「何で来たんだ?!」
「ちょっとセンパイが心配で……」
「心配?」
 こんなに駅近くで道に迷うと思ったのだろうか。頼りない先輩と思われているのが切ないな。大体ここでふみちゃんが縁切神社に入ってきたら、僕たちは絶縁になってしまうのだろう? それを嫌がったのは、僕もそうだし、ふみちゃんもそうだったじゃないか。それなのに。僕だってひとりで二時間も遠くへ来るのは心細かった。だけど、それはふみちゃんが固く信じる絶縁させる力を避けたからなのに。それなのに。
「なぁ……何で来たんだよ」
 本気で溜め息混じりに不満をぶつける。
「でも、数井センパイ、榎木の枝には人に熱病を引き起こすやつが出るんです」
 いきなりそう言った。まったく意味がわからない。
「熱病?」
「体……熱くないですか?」
 さっき暗い絵馬を見たせいか、体調は良くない。精神的なストレスかもしれないけれど。まあいいや。ふみちゃんと変に言い合っているより、早く樹皮を削ってここから帰りたい。
「とにかく来るな」
 近寄るのを牽制したが、ふみちゃんは首を横に振った。
「あ、やっぱり、馬の首が榎木の枝からぶら下がってます」
 そう言いながら境内に踏み入ろうとする。いや、待て。待った。今何を言った?
 馬の首が木の枝から下がってる? 僕はすぐに榎木を見た。太い幹から枝が何本も張り出し、僕の頭上にも樹木の腕のような大きな枝があり、そのあたりを花柄のしおりがひらひらと舞っている。馬の首などない。あるわけがない。
 実は、こんなふうにふみちゃんが変なことを言い出すのもこれが初めてではないのだ。僕は必死に冷静な心でいようと努力する。文系の女の子に見えて理系の僕に見えない何かがあるのだろうか。あるとすれば探るしかない。
「ここに……馬の首……があるのか?」
「センパイを見てます」
 そう言われても、やはり何もない。風で少しずつ落ち葉が散り、空中でしおりが躍る。いつもなら僕のバッグで抑え込むのだが、なぜか高い位置でクルクル旋回していて、手が届く位置でなかった。
「えっと……何で……そんなものが?」
「榎木だからです」
 ふみちゃんの答えを聞いた直後だったか、僕は強烈な目まいに襲われ、全身に激しい悪寒が走り、その場にうずくまった。芯から体中が燃えるように熱い。急に高温のサウナ室へ放り込まれたような予期しない体調変化だった。苦しくて吐きそうになる。
「ああっ、やっぱり!」
 ふみちゃんが慌てて鳥居をくぐり駆け寄ってきた。ダメだって。来るなと言ったのに。自分で二人で入ったらいけないと、絶縁になると言っただろうが。ダメだって! ダメだって!!
 全身が熱くて吐き気が込み上げてくることよりも、ふみちゃんが境内に入って来てしまったことの絶望感が僕をひどく打ちのめした。あれだけ自分で言ってたのに。僕との絶縁は――仕方ないのかよ。なあ!
 足の力が抜けて錯乱する僕を、ふみちゃんは背中から抱きかかえるように支えてくれた。お姫様を抱っこするのとまったく立場が逆だ。小さな体のふみちゃんに、背の高い僕は全部重みを預けていた。全身に力が入らない。とにかく体が熱くて立てない。
 ふみちゃんが子どもみたいな手で、僕のおでこをゆっくり触った。汗が噴き出し火照った顔に、手のひらの感触がやわらかい。呼吸が苦しくて、このまま目をつぶりたい気分だった。
「すごい高熱ですよ!」
「いや……立ちくらみだって」
 弱々しい声で返す。
「数井センパイ、違います。馬の首にやられたんです。帰りましょ!」
 そこから溢れ出す状況説明は雑だった。榎木の枝には馬の首がぶら下がることがあり、旅人を襲って熱病を起こすのだという。旅人って、ただ友達の頼みで樹皮を取りに来ただけでも旅人と言うのだろうか。まあ、二時間は僕には旅みたいな感覚だった。馬の、首か。どうすればいいんだろう。榎木の樹皮は――
「どうするんだ?」
 それしか言葉に出なかった。喉がガラガラに渇いて自分の声じゃないようだ。
「うん、任せてください。わたしが取ります」
 予想以上に元気いっぱいの声で笑顔を振りまかれた。お姫様抱っこは顔がすごく近くて照れ臭い。ふみちゃんは、トートバッグからお好み焼きで使うような金物の真新しいテコを取り出し、僕を敷石に座らせ立ち上がる。
「おい、危なくないか? 馬が……いるんだろ?」

画像1

ここから先は

4,248字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?