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後輩書記とセンパイ会計、 不退の架橋に挑む

 開架中学二年、生徒会所属、頭がいい会計の数井先輩は、いつか絶対に割れない眼鏡を開発する技術者になっていると思います。数井先輩は小学生時代、国内の眼鏡生産量日本一が富山県の鯖江市であることを知っているほどの上級者だったそうです。図書館の書物によれば、鯖江の眼鏡産業は、明治の終わり頃に増永五左衛門という人が農閑期の副業として、少ない初期投資で収入が得られる眼鏡の枠作りに着目し、東京や大阪から職人を招いて製造技術を伝えたことが発端らしいですが、数井先輩は、そういうのを調べたことはない様子でした。
 一方、米粒に書かれたお経でも裸眼で読むことができる一年後輩の生徒会所属、平凡な書記の私は、およそ吊り合わないほどの眼鏡知らずで、国語が得意な読書家で、近所の公立図書館の年間利用日数一位を毎年表彰されていますが、不思議と目が悪くなりませんでした。
 思い返せば六月半ば、学校の視聴覚室。外は雨だった気がしますが、黒いカーテンで締め切られた視聴覚室で、生徒会長の屋城先輩から、山口県岩国市にある『錦帯橋』を撮影したビデオを見せてもらい、屋城先輩は鼻息荒く「来年の修学旅行は、日本の三名橋を巡る旅を提案するぞ!」と意気込まれたことがありました。
 というのも、開架中学には、いつの頃からか、伝統的に学校行事の内容について生徒が企画提案できる権利があり、もちろん何でも通るわけではありませんが、屋城先輩は歴代の生徒会長の中でも、与えられた枠内に収まらず、『生きる自分たちの自由を通す』ことに強い意志を持った人なのです。
 ただ、日本三名橋の話は、錦帯橋の映像に出現した大きな蛙のせいでうやむやになり、あれから生徒会で再検討されることもありませんでした。そのうち夏休みが過ぎ二学期が始まり、秋の連休も過ぎて、九月の下旬になりました。
 屋城先輩の下の名前は世界といい、あまり本では見かけませんが、男性です。走り幅跳びで県大会に出場したほどの実力を持っていますが、三年生なので部活は引退し、もうすぐ高校の推薦入試を控えていました。屋城先輩なら難なく面接も突破しそうと数井先輩も私も思っています。
「数井センパイ、もうすぐ眼鏡の日ですね」
 いつものように生徒会室で二人きり。数井先輩は、脈絡のないことでも毎回いろんな反応があって楽しいので、今日も思い切り唐突に言ってみました。
「えっ、そうだったんだ。あ、そう言えば、この前、眼鏡店の割引チラシが家に来てた気がするなぁ。ふみちゃん、この日、眼鏡に何が起きたんだ?」
 眼鏡に何か革命的なことが起きたから眼鏡の日になった――と、まず考えた数井先輩の発想も予想外でしたが、数井先輩はどうも自分で考える気はないようなので、私はプリントの裏紙に【1001】と書いて見せました。
「数井センパイ、違います。はい、ヒントです」
「ん、ヒント? ふみちゃんにしてはまどろっこしいね」
 確かに私はすぐ正解を言ってしまうのですが、今日は他でもない眼鏡の日なので、数井先輩が答えにたどり着いて欲しかったのです。じっと【1001】を凝視しています。そのうち、数井先輩は両手の指を折りはじめました。私は数学にはまったく詳しくないのですが、何かの数字の組み合わせだと思って計算しはじめてしまったのでしょうか。
 理系の先輩に浮かんで文系の私に浮かばない何かがあるのでしょうか。あるとすれば探るしかありません。
「あの……数井センパイ、何を数えてますか……?」
「いや、何の数字だろうなーと。二進法? 九なんだけどね」
 私はとにかく数字に明るくないので、ニシン砲の球というのがどんなものかわかりません。答えられず黙ってしまうと、数井先輩はまた違うことを言いました。
「あ、ディズニー映画で、白黒の犬の話があったよね。あれが確か千一匹だったかなぁ」
 えっと。いや、どうしてディズニー映画に行ってしまったんでしょう。これは権利関係のためにも早めに訂正しておくべきだと感じました。
「数井センパイ、違います。それは百一匹です」
「んっ、そうか、そうだったね」
 数井先輩は勘違いしたことを少し照れ臭そうに笑います。その笑顔は見ていると楽しいんですが、あれの十倍近い数の白黒の犬が画面いっぱいに登場したら、もふもふ過ぎて物語に全然集中できなくなります。いつの間にか眼鏡の話も消えてしまいました。普段、数井先輩から、私は説明が雑だと言われますが、数井先輩は回答が雑なのです。残念ながら正解を私が言いました。
「あの……これ単純に眼鏡っぽい形に見えるから、なんですよ」
「えっ、それだけ? んー。まあ、見えるけれど」
 数井先輩は拍子抜けというか落胆の顔をしたので、私は急に戸惑いました。どうしよう。別に機嫌が悪くなったわけじゃないと思うのですが、眼鏡をこよなく大切にする数井先輩に対し、眼鏡の日に、意気揚々として眼鏡の話題を出して納得を得られなかったことを、私は少し後悔しました。と思ったら、
「ふみちゃん、世界の眼鏡人口ってどれくらいいるのかな?」
 助かりました。数井先輩の興味が眼鏡に戻りました。それなら、公立図書館にあった『眼鏡の世界史』という本で調べたことがあります。少し古い情報かもしれませんが、ここで答えないわけにはいきません。
「日本は約七千万人で、中国で約八億人らしいので、世界だと何十億人になると思います」
「そうなんだ。それって、コンタクトレンズの人も眼鏡を一応使うから、眼鏡人口に入れてるんだね。日本人の眼鏡率はすごく高いね。世界一なのかな?」
 えっ、えっと。しまった、深みにハマりました。数井先輩みたいに瞬時にそんな計算はできません。日本には多いな、と感じましたが、統計的に読み込んでませんでした。
「あの……本にはドイツも眼鏡率が高いって書いてありました。ドイツは、眼鏡代を全額出してくれる健康保険に入っている人が多いそうです」
 私はただ前に本で読んだことを話しました。すると、数井先輩はハッという顔で、私の目を見つめます。
「それ、すごいね――っ! 僕もドイツに住みたい」
 ダ、ダメです。お願いだから、そんな理由で外国に行かず、ずっと日本にいて欲しいです。もちろん、そんなこといきなり口に出しては言えないけれど。結局、日本と世界の眼鏡の話は大体そんな感じで終わりましたが、数井先輩は日本の眼鏡率に何となく満足した様子でした。

 十月一日、「眼鏡の日」当日になり、屋城先輩の号令で生徒会室に集まりました。たいてい数井先輩が一番に来ていて、私が入って、屋城先輩が来るので、今日もその順序でした。
 なお、女子副会長の英淋さんは、小さい弟さんが家の窓辺で虫眼鏡で日光を集めてたら、絨毯をちょっと焦がしてしまったらしく、慌てて飛んで帰ったと数井先輩から聞きました。確かに大変なことです。
 屋城先輩は、私たち二人の顔を見ると、模造紙を黒板に広げて磁石で止めました。山口県から九州までの白地図が書いてあり、橋の写真が四か所に貼りつけてあります。ひとつは山口県岩国の錦帯橋で、次は山口県と福岡県の境い目になる関門橋、そして、長崎県に眼鏡の形をした橋の写真が二枚ありました。
「だいぶ前に話した長崎の『眼鏡橋』なんだが――二ヶ所あると判明した」
 もう終わったと思ったこの話を、屋城先輩が再び持ち出すとは思いもしませんでしたが、数井先輩をちらっと見ると、黙って様子見しています。
「ひとつは長崎市の中島川に架かる石造二連アーチ橋だ。もうひとつは、諫早(いさはや)市の諫早公園の池に架かる石造二連アーチ橋だ」
「世界さん、それって近いんですか?」
「近くない」
 即答でした。
「長崎の橋と言えば、もうひとつ、出島の『表門橋』だ。アーチ橋ではないが、長崎の町中と出島をつなぐ唯一の橋だった。言わば、鎖国時代に外国の窓口だった重要な橋だ」
 屋城先輩は、日頃から国を変えたいと言っている人でした。鎖国がしたいと言っていました。世界という名前ですが、外来語やカタカナが氾濫しないよう、日本文化を保持する考えでも持っているのかもしれません。ともかく、屋城先輩は模造紙の地図を熱っぽく指差し、続けます。
「だが、明治時代に破損してしまい、いまは橋の復元事業が行われているらしい。長崎は、坂とかその上の雲が有名だが、知れば知るほど、橋の歴史は――かなり奥が深い」
「屋城センパイ、違います。『坂の上の雲』は愛媛県の松山市が舞台です」
 それは司馬遼太郎の小説です。日本が富国強兵して行けば届くと考えられていた列強諸国の仲間入りを〝坂の上の雲〟と回顧的にたとえた物語ですが、屋城先輩は何となく坂の上に雲をイメージしただけの乗りで、そして、数井先輩はいつも通りまだ話に混ざっていない雰囲気でした。屋城先輩は私の目を見て、手をポンと打ちました。
「そうか。長崎は、上に届かない雲じゃなくて、前に見えない壁だったな」
 屋城先輩、それには思い当たるものがありますが――実は、違うんです。そんなのいないんです。でも、どう説明したらいいのか迷いました。いつの間にかもう橋の話でなく、坂でも雲でもなく、壁の話になっています。
「見えない壁……?」
 数井先輩がようやく反応してくれました。たとえば屋城先輩が、私が解くのが苦手そうな好き勝手に動く〝点P〟だとしたら、それを「やれやれまた動いてるのか」と、難なく冷静に解きそうなのが数井先輩です。
「いや……壁だったような、壁でなく、もっと肉っぽかったような」
 屋城先輩にしては珍しく歯切れの悪い返し方でした。でも、わかります。合ってます。きっとそれは私が知っている長崎に伝わるもののことで、壁でなく、肉っぽく、言葉を塗り込めてしまう粘着性があるものなのです。
 ふうっ、と屋城先輩は興奮を抑え気味に語りはじめました。
「姉さんと行った六月の視察旅行は、山口に始まり、関門橋を越え、長崎を巡った」
 屋城先輩のお姉さんは、銀河さんという名の女性で、大学生で、とても行動範囲や交友範囲が広い人です。
 銀河さんは、屋城先輩が以前、「姉さんは事を起こして名を残すが、あれはジャンヌ・ダルク型じゃない。楊貴妃型でもナイチンゲール型でもない。たとえれば、女性で初めて大西洋を単独飛行したアメリア・エアハートだ。自分の気が向くままにやっただけなのに、後世が勝手に名を讃えた」と言うほどの人で、実際、その通りでした。空気のように軽い心を持ち、巨大な壁があった瞬間、上を飛び越す方法を迷いなく探す人なのです。
 数井先輩は落ち着いて頷きました。
「ああ、やっぱり全部下見に行ったんですね」
「長崎で――ありのまま、あのとき、あったことを話すぞ」
 そう屋城先輩はすごみました。

 割愛しますが、屋城先輩の説明はとても簡潔明瞭で上手でした。私はとても真似できませんので、そのすぐ後のやりとりからまた振り返ります。
 数井先輩は悩ましい面持ちで、頭を抱えました。
「そうですか。夜中、坂の上に黒いどろどろした影を見て、車を下りたら、見えない肉の塊に包まれたような感じだった、と」
 うむ、と屋城先輩が深く頷きました。屋城先輩が自分の体験談をこんなふうに鬼気迫る勢いで語ったのは珍しいことでした。よほどの衝撃だったのだと思います。
「あれを――人が壁と言うなら壁なんだが、感触的には、肉だった。案外、実体験してない老人とかが適当に『壁だ』とか言うのかもしれないな」
 世界さんは誰を相手に言ったのか、威丈高に腕組みをしました。数井先輩も答えに詰まっていたので、私はもう少し状況を聞きました。
「あの……銀河さんは何ともなかったんですか?」
「姉さんは普通にスタスタ歩いて俺を追い越したな。で、『あんた、なにを空中でパントマイムしてんの?』という感じで振り向かれた。しかし、その姉さんの姿も、俺は視力が落ちたみたいに、妙にぼんやりしてたんだ」
 視界が不明瞭なのは、やっぱりそうだったんだと思います。進めないとか越えられないとかでなく、中に塗り込まれそうな感覚なら、それは掴める硬いものでなく、不定型で形のないものだったと思います。
 屋城先輩は少し話し疲れたように力を抜きました。
「数井――会長の俺に見えて会計のお前に見えそうにない何かがあるんだろうか。あるとしたら探ってくれ」
 数井先輩は、とんでもない無茶振りをされたかと、
「ふみちゃん、知ってること、言いたそうだね」
 見透かされたように、私は説明を求められました。私は精一杯、順を追って話します。もともと、長崎のある島に、夜に道路そばの山から突き出してくる大きなものがいて、やがてそれが、人間の内臓をつなぎ合わせたような恐ろしい黒い塊と言われるようになりました。と、順を追っているのに、数井先輩の顔が早くも曇っていきました。でも、私もやっぱり伝え切らないと落ち着かないので続けます。屋城先輩は興味深そうに身を乗り出していました。
 内臓をつなぎ合わせた塊になったのですから、壁とは違います。でも、ある人は、壁みたいに行く手を阻むものだという言い伝えから、壁の形をしていると捉え、また別の人の語りによって、壁が人の行く手を阻んで中に塗り込むという新しい解釈が生まれました。それが広まる頃には、内臓をつなぎ合わせた塊の口伝は消えかかり、壁が人を塗り込む現象が、あったものとして語られてたんです。――と、話し終えたところで屋城先輩が快活に笑いました。
「ふみすけ、なんだ、俺が包まれたのは内臓なのか」
 屋城先輩は私のことをふみすけと呼びます。全校で一人、屋城先輩だけなのですが。とにかく大変な体験をしたのに、何で笑ったのか戸惑いました。すると数井先輩が、内臓とか壁とかどっちも理解できない感じの顔つきで、声を押し殺して聞きました。
「世界さん、その変な感覚の後、どうなったんです……?」
「どうだったかなぁ。姉さんが棒で足下を払ったら、その感覚がスッと消えた気がする」
「棒? 銀河さんは何でそんなことを?」
 屋城先輩もその時はパニック状態で、記憶がはっきりしないらしく、思い出し思い出し話します。
「俺がそのパントマイム状態で、道路脇の草むらに引きずられたんだよ。姉さんが驚いて追って来てくれたんだけど、草がすごい茂ったところで、足が汚れそうだからって、棒を拾って雑草を払ったんだ。そしたら、パントマイム状態からスッと解放された」
 屋城先輩は平然と状況を言いましたが、草むらに引きずり込まれて内臓の塊に塗り込まれたら、結構危険だったと思います。銀河さんがいつも短いパンツの生足全開な人で、本当に幸運だったかもしれません。とにかく、長崎の橋巡りの途中で危険な目に遭ったのは確かで、屋城先輩が無事に帰ってきたことに対し、ほっと胸を撫で下ろしました。
 不意に、数井先輩と目が合いました。どうしてこんな瞬間、私をしっかり見ているのか、本当に不思議です。
「長崎の……夜道は出歩かないほうがいいですね」
 数井先輩が話を畳んだ理由と、私が話を飲み込んだ理由は、きっと同じです。〝動く点P〟である屋城先輩がこれ以上好奇心を湧き立てて、長崎探索を本気でやろうとか言い出さないように、私たち後輩二人はこっそり呼吸を合わせました。数井先輩とはこういうタイミングで絶対にズレないのです。黙って目で合図を送ってきて、胸が一瞬高鳴ることがありますが、あの目で物を言われると、私は素直に応えてしまいます。
 素直に。数井先輩の思う――タイミングに。合わせます。
「それより、二つの眼鏡橋だ」
 でも、屋城先輩は、私たちが鎮静化した空気を思い切り吹き飛ばすように突然、眼鏡橋のことに話を戻しました。もう眼鏡の話なんて消えたと思ってたのですが。数井先輩もまったく同じ表情をしています。むしろ露骨に迷惑そうな顔で、眼鏡の話になったら自分が確実に巻き込まれる、と警戒しているようでした。
「橋を架けるってのは、進みたい意志なんだよな」
「そうですね」
 数井先輩が静かに答えます。
「じゃあ、橋を閉ざすのは、進みたくない意志なんだろうか」
「それって……出島のことですか?」
 そうだ、と屋城先輩は大きく頷きました。
 私は声も出ず舌を巻きました。数井先輩は今の短い言葉から、何でそれがすぐ察知できたんだろう。察しがいいというレベルでなく、屋城先輩の発言の裏を読み解く速度が信じられないくらい速いのです。私は、先輩二人がいま何を話したいのかわからなくて、知りたくて、その間を行き来する言葉にそっと聞き入りました。
「なぜ、進歩とか、進展とか――『進むことに価値がある』という前提なんだろうな。進む必要があるなら、誰もが意志と労力をもって橋を架けるわけだし、進む必要がないなら、橋は創られない。創った橋は、今度は誰かが守らなければならないぞ」
「進歩は……みんなが望んでるんじゃないですか?」
「橋がなくなったら、それで人の進歩は止まるのか。たとえば、宇宙ロケットが地球と異星の架橋だとして、それが一切開発されなくなったら、人の進歩は止まるか?」
「僕には……正直わかりません。ただ、自分がいる場所がいつまでも安定や安全とは限りませんし、可能性を求めて橋を架けようと言う人は、きっと出てくると思います」
「まあ、それはそうだな。立場が違い、時代が違えば、俺はペリーになっていたかもしれないな」
 屋城先輩が浦賀に停泊した黒船から降りてくる姿を想像して、私は何だかすごくしっくり来ました。数井先輩が、時の老中として頭を悩ませ、眼鏡を替え、とりあえず船や砲台や弾丸を数えて肩を落とす姿も一緒に浮かびました。もちろん、二人には言いません。
 ちょっと口元で笑ってむふむふしていたら、予想通り、数井先輩に目で怒られました。でも、黒船の甲板に立ち、大勢のチョンマゲを見下ろす屋城提督の姿を浮かべると、むふむふが止まりません。肩幅のある黒服の提督は、眼鏡の若い老中に問いました。
「橋を架ければ、可能性が試せるか?」
「……そうですね。橋そのものが可能性だと――僕は思います」
 すると、屋城先輩は得心したように「お前も言うなぁ」と笑った。
「長崎の眼鏡橋は面白かった。双眼鏡みたいな橋だから、きっと、あの場所からもっと遠くの世界を見たかったやつが設計したんだろうな」
「遠くの世界を見るのは眼鏡じゃない気もしますけど、変なものに出会わないなら、いいなと思いますね」
 あ、あの。行きたい。私も。
「数井センパイ、いつか一緒に行きましょ。私も連れてってください」
 思わず身を乗り出してしまうと、数井先輩は私の頭をよしよしという感じで撫でました。数井先輩にちょっと高いところから寄り添われると、心がほっと落ち着きます。手のひらが温かいのです。
「ずっと何だろうと思ってたんだけど、ふみちゃんの今日の髪型は、イカリングみたいだね。これは眼鏡なの?」
「数井センパイ、違います。イカリングじゃありません」
 私はむすっと言い返しました。屋城先輩が笑います。
「長崎の五島列島には『いか茶漬け』という名物もあるらしいぞ。あれも内臓みたいにぐにゅぐにゅしてるから、ついでに食って来い」
「ふみちゃんが大きくなったら、ですね」
 数井先輩から、私はなぜか進化を求められました。まあ、でも約束は約束です。ちゃんと覚えました。
 約束は、未来へ架ける橋です。


 屋城先輩が勢い余って言い出しかねなかった修学旅行の長崎橋巡り案は、棒で払ったことで消え失せ、屋城先輩は学ランの上着を肩にかけて、先に帰って行きました。私は、数井先輩が来月の文化祭で準備することをノートに細かく整理しているのを、じっと横で眺めていました。少し手持ちぶさたになったので、両手の指先で輪っかを作り、自分の目に当てました。
「数井センパイ、私も眼鏡です」
「ふみちゃんは何もしないままがかわいいよ」
 即答でした。数井先輩はノートから顔を上げず、つまり私の手遊びも見てもらえず、それなのに私の心臓は、小さい体からはじけて抜かれそうなくらい高鳴っていました。そんな私の前で、数井先輩は電卓を静かに打ちながら、几帳面そうな字で数字を足していきます。
 計算に弱い私は、数井先輩が手元で何してるんだろうとぼんやり思いながら、でも聞けませんでした。
「イカリング、好きだから、お弁当にしようよ」
 唐突なんです。でもそこが数井先輩です。
「は、はい」
 そんな感じで、いつか私が成長したらお弁当持ちで長崎に行く約束はしましたが、数井先輩とは別に進展はありません。屋城先輩が黒板に貼りっ放しで帰ってしまった橋巡りの模造紙をきれいに畳んで、「橋そのものが可能性だ」といった言葉を少し胸に思い返しながら、数井先輩と帰るだけです。

(了)

各話解説

 第四作目「不退の架橋」は表題作ですが、橋の話でもなく、夏の話でもなく、ただの眼鏡の話です(笑)。しかし、ただそれだけでなく、初めて数井くん以外が語り手となった、つまり今回はふみちゃんが語り手である作品です。題材には、眼鏡橋のある長崎に焦点を当てて、長崎に伝わる地方妖怪の『塗坊(ぬりぼう)』を選びました。
 この『塗坊』は、大変メジャーな妖怪『塗壁(ぬりかべ)』と混合されることがあるのですが、伝承を紐解けば、壁の必然性は乏しいということを、後輩書記シリーズ読者でもある長崎在住の霹靂火さんが考察しており、本作執筆においてはそれも参考にしています。
 ご存知の通り、ぬりかべは、水木しげる先生がキャラクター化したことで、全国的な知名度になりました。ただ、私は「壁に塗り込める」というのが、幼少時から何となく意味不明でした。壁は固まっているから立てるのであり、セメントみたいな状態だと立ってられないじゃないか、と。で、霹靂火さんが調べられた『塗坊』という内臓をつなぎ合わせた妖怪の情報を得て、「塗り込める」といったものがどこから来たのかスッキリしたのです。
 妖怪は、人に伝えたくなるものだと思います。伝わる過程で変化は当然起こります。私は変化が好きなので、どこが変化せずに後世に残り、どこが融合・離散して変化したかを知ることも、伝承に触れる楽しみ方だと思います。
 ともあれ、冒頭の大蝦蟇の話から橋でつながる眼鏡話を、数井くんがそばにいてくれるふみちゃんの気分になって追体験してもらえれば幸いです


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