菅田将暉は本当にまちがいの方か
「まちがい」と違和感
「まちがいさがし」と言う曲がある。
菅田将暉が歌うドラマ「パーフェクトワールド」の主題歌で、「まちがいさがしの正解の方じゃきっと出会えなかったと思う」と言うフレーズと、
力強く前に進もうとする菅田将暉の声が印象的な2019年の名曲だ。
ところで私は、この歌を聴いてからずっとモヤモヤとしていた。
菅田将暉の声は、あまりにも真っすぐで力強いのだ。
それがとても魅力的なのだが、どうしても拭いきれない疑問が浮かぶ。
菅田将暉よ、お前は本当に間違いの方なのか?
僕は常々思ってるんですが
菅田将暉は明らかに「陽」のオーラを纏った人物だ。
2022年、月9ドラマの「ミステリと言う勿れ」では主人公の久能整を演じていましたが、私は原作が好きで漫画を紹介する時に自分でモノマネをするぐらいだったのですが……その時は、誰に言うでもなく淡々と話していたのでした。
ドラマを見て愕然としたのは、「僕は常々思っているんですが」の圧がだいぶ強かった、と言うことです。
そもそもこのドラマの原作主人公である久能整は、「僕は誰かを好きになったことがありません」「もしかしたら男の人が好きなのかも」などと自分のモノローグで言うぐらい、性的にはフラットな人物です。
リアルにいたら無害系で、いかにも女友達が多そうなタイプ。(※と言う私の認識です。)
ところが、ドラマではこれが「論破」ともとれるような演技になっていました。
他にも、このドラマは古い考えと言うか、男子が男性グループの中で下っ端としてこき使われる場面で、何故かその立場の人物が女性に改変されていてお茶くみのような事をさせられていました。正直、私は男尊女卑の様な印象を抱いてしまいました。
これらの改変、誰のために行われたのでしょう。
また、彼のラジオを聴いているとわかりますが、彼(菅田将暉先生)は世界がほんのり好きで、自分の為に世界がある事をやはり肯定していますよね。
とは言え、私の意見はいわば「解釈違い」とでも言うべきもの。男として強さを持つこの整くんを喜んだ人も当然居るでしょう。新しい映画も9月に公開されます。
それにしても菅田将暉、まちがいさがしの正解側の香りしかしません。
本当の「まちがいの方」は誰か
ところでこの歌の作詞作曲は言わずと知れたこの記事のアイキャッチの人物。米津玄師です。
米津玄師は押しも押されぬヒットメーカーですが、俺たち側の存在だと信じて止みません。長らく露出が少なく顔を隠す様な髪型でしたし、何かコンプレックスを抱えているに違いありません。
こんな内向きな文章、陽キャには絶対に書けません。多分彼のメインキャラは商人だったのでしょう。
商人はレベルが上がると転職してブラックスミスとなり、PTプレイで活躍するのですが、その話が出てきていないので、恐らくずっとソロだった事が想像出来ますね。おっと、自分をつい重ねてしまいました。
米津玄師、マインスイーパーも1人で黙々とやるのが好きらしいですね。ゲフェンダンジョンの話と繋がりが感じられる気もします。
こんな内向きな文章を書いておきながら、他人との繋がりを予期させる「キャッチボール」と言うタイトルを付け、主題とする所が手を伸ばしたいもどかしさを感じ、とても粋です。
ところで、「まちがいさがし」には、米津玄師によるセルフカバーバージョンが存在しています。アルバム「STRAY SHEEP」の9曲目で、
これは同じくセルフカバーである「パプリカ」が収録されているアルバムです。
「パプリカ」は、Foorinが歌う東京オリンピックのテーマでした。
原曲は子供の声が集まる元気がいっぱいの曲。それに対して米津玄師によるセルフカバーはPVの赤い彼岸花とどこか不安定な音作りが優しさと懐かしさ、そして死の匂いを感じさせるものとなっています。
わざわざセルフカバーするからには、自分がもともと仮託した歌手でない物を表現したかったと解釈できますが、「STRAY SHEEP」の「まちがいさがし」は米津玄師の声を前面に出した、比較的原曲に近いアレンジです。このアレンジで浮きぼりにされるものは歌手と、その表現です。
ここにきて、「STRAY SHEEP」の「まちがいさがし」で表現されたものは、米津玄師と菅田将暉そのものなのではないか、と言う仮説を得ます。
ブロマンス的な2人
米津玄師は、自分の音楽がポップスとして消費される事に対し非常に肯定的な発言が散見されます。アルバム「YANKEE」の発売時のインタビューでは、
と語っていて、たびたび「普遍的な音楽とは何か」について言及しています。同時に「我」の弱さを節々に感じさせます。これが、彼のアーティストとしての歩み方に一貫性を生み出しています。
米津玄師がイメージした「原曲がより輝く姿」とはなんだったか。
それは、自らが「まちがいさがしの間違いの方」を表現し、盟友菅田将暉の力強さをより際立たせるということに他ならないだろう。
それを裏付けるように、
先日、度々行われている二人の対談が動画でアップロードされた。
一部引用するが、ここまでこの文章を読んだ人にはぜひ全て動画を見て欲しい。
米津玄師の普遍性へのストイックさと、その頑なさに「でも居ないよ俺友達で教科書載ったやつ」と入り込める二人の関係。
これが盟友と言わずなんであろうか。
菅田将暉は、自ら影に徹しようとする米津玄師にさえ光を灯す魅力があり、米津玄師が菅田将暉へ、友人以上の献身をした1対の歌。
これが「まちがいさがし」で表された「せいかい」と「まちがい」であろり、歌は二人の関係を恋に仮託したものではなかったか。
冒頭に戻る。
私は今となっては「菅田将暉は所詮正解の方だろう」などとは言えなくなってしまった。
米津玄師と共にまちがいの方に生まれた事を肯定し、いや、「正解かなんてどうでもよく」応援しようと思う。
今は、「まちがいさがし」や2人の関係が50年後に残る事を祈るものが、ここにも一人いる。どうやら私も、米津玄師たちの術中にハマったらしい。
(了)
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