時結い人 第4話
第4話: 疑いの影
葵は息を潜め、身を低くした。扉が開かれる音が響く中、心臓の鼓動はますます早くなった。誰が入ってきたのか——それが味方なのか、敵なのかさえ分からない。龍馬を守らなければという焦りが、彼女の全身を駆け巡った。
足音が廃屋の中に響き渡り、近づいてくる。葵は、目の前に横たわる龍馬の顔を一瞥し、彼をどう守るかを必死に考えた。彼をこのまま放っておくわけにはいかない。もし敵ならば、この男を殺すためにここに来ている可能性が高い。だが、手持ちの物は乏しく、逃げる場所もない。
「ここに誰かいるのか?」
男性の声が聞こえた。その声は決して大きくはないが、冷静で、どこか疑いを帯びている。足音はゆっくりと近づき、何かを探している様子だ。
葵は心臓が激しく脈打つのを感じながらも、冷静さを保とうと努めた。もし彼が龍馬を狙う刺客なら、ここで自分も危険に晒されることになる。だが、逆に彼が助けを求めて来た味方であれば、状況は大きく変わる。
扉の隙間からその男の姿が見えた。着物を身にまとった30代ほどの男で、鋭い眼差しを持っている。腰には刀を携え、足取りは重々しくも、何かを見定めるように動いていた。
「ここだ……誰かがいる」
彼は龍馬の体に気づいた。瞬間、彼の目が大きく開かれ、すぐに龍馬の元に駆け寄った。その様子を見て、葵は身動きが取れなくなった。男が敵なのか味方なのか、まだ判断がつかない。
「坂本様……?」
男は龍馬の顔を見つめ、動揺したようにその名を口にした。葵はその反応に、ようやく安堵の息を漏らした。彼は敵ではない。少なくとも、龍馬を助けようとしていることがわかる。
「あなた、龍馬さんの知り合い……?」
葵はついに姿を現し、男に問いかけた。男は驚いたように振り返り、彼女を鋭く見つめた。
「お前は誰だ?」
彼の疑わしげな目が、葵に注がれた。男の眼差しは険しく、すぐに抜刀できるように手を刀の柄に置いている。緊張感がその場を支配した。
「私は……葵。彼を助けようとしていたところです。彼の命が危ないことは分かっているでしょう?」
男は一瞬、黙り込んだ。彼女が龍馬を助けたことに対しては確かに感謝を抱いているようだが、それでも彼女の素性については警戒を解かない。
「この状況で、どうやってあの男を助けられる?お前、どこから来たんだ?」
その問いは、葵にとって最も答えにくいものだった。どうしてこの時代にいるのか、自分自身でも説明がつかない。彼女が現代から来たことを説明すれば、信じてもらえるはずもない。
「とにかく、今は彼を助けることが最優先よ。話は後でにして」
葵は冷静を装い、男を促した。彼女の態度に、男は少し考え込むような表情を浮かべたが、やがて頷き、刀の柄から手を離した。
「そうだな……今は坂本様を安全な場所に連れて行くのが先だ」
彼は龍馬の体を抱え上げ、再び顔色を確認した。葵はその様子を見守りながら、自分の役割がまだ終わっていないことを自覚していた。彼女はこの時代に来た理由もわからず、どうすれば元の時代に戻れるかも分からない。しかし、今はただ、目の前の人を助けることに専念しようと決意した。
外は、日が沈みかけ、空が薄い朱色に染まっていた。男は葵に手伝わせながら、龍馬を抱えて人目を避けて町を抜け出そうとしていた。彼の足取りはしっかりしていたが、どこか焦りが感じられる。
「これで……龍馬さんは助かるの?」
葵が恐る恐る問いかけると、男は険しい表情のまま小さく頷いた。
「坂本様の知り合いが隠れ家を用意している。そこにたどり着けば、しばらくは安全だろう」
葵は少し安心したが、同時に新たな不安が胸をよぎった。もし自分がここで何らかの影響を与えてしまえば、歴史は変わってしまうかもしれない。しかし、それ以上に彼を見捨てることはできなかった。
「……どうして私がここに来てしまったのか」
葵は歩きながら自問自答を繰り返していた。龍馬の姿と、幕末という時代に取り込まれた自分の状況。全てが現実離れしていたが、確かに彼女はここにいた。そして、彼女の行動が、これからの歴史にどう影響を与えるのかはまだ誰にも分からない。
次回、第5話へ続く。