北九州の奇祭をみて考えたことー子育てし易いってなんだろう。またバカを学校に閉じ込める弊害と少子化を考える
まあ奇祭である。同じ炭鉱で栄えた磐城、夕張なんぞにこういう文化はないようである。北九州ならではの文化だ。
こういう奇祭をやってる街で子育てしたいと思う大卒層はあんまりいないと思うな。子育てしやすいっていうのはどういう観点から見るかによる。が、こういうのと同じところにいるというのはまさに門前の小僧習わぬ経を読むし、孟母三遷する話である。
こういう奇祭をやるのはどんなやつかというと、昔から相場が決まっていて
https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/tsuredure/turedure100_149/turedure116.htm
ひとの本質は万古不易ではある。
こういう野生こそ繁殖に必要なものである。
それが故、北九州の出生率は高い。こういう服装を好む人間は未来を考えるより刹那に生きるだろう。
刹那に生きていく。我が子をこういうのと同じ学校にいさせるきにはならず、こういうのを育てる親と関わりなど持ちたくない。
たしかに私立へ避難を考えたくなるわけである。
こういう奇祭をやる彼らは外部不経済であるとも言える。
彼らに公的な学習空間にいられると、まともな教育を受けたい層が離脱してしまう。で、どんどん公的な教育が悪化していく。アメリカのスラム街を形成する連中と同じだ。
逆にまともな教育を受けたい層からすると、彼らから避難するため高い費用で私立にいかざるを得ない。親は無駄なコストを払わされ、その費用の備えで生活が劣化する。
端的に考えると、この2つの種族は生活空間を分けるべきである。
実質すでにわかれてはいるわけである。
北九州の賢い子は大学に行くなりして、東京に逃げていく。帰ってこない。
そうすると北九州はこの文化が濃縮されていくわけである。合わないやつは離脱していく自由があるから。
この奇祭2007年くらいから始まった文化らしいが、16年たった。こういうのやる刹那に生きる民はだいたい早婚デキ婚なので、二世代目になりかかっている。そうすると親が金を出すようにもなるだろう。ますます濃厚な文化となる。孔雀みたい。
一方東京に行った層はタワマン文学に飲み込まれていく。このように都市と地方が分断されていく。
分断されていくのを避けるにはどうすればいいか?いやそもそも避けるべきなのか?
答えは自分の中にはある。が、それを実現するには面倒な政治的作業が必要になる。
その作業は困難極まるガラス細工になるだろう。
困ったものだ。
選挙にでもでないとどうにもならんので、いつものプロ倫に行き着く。