見出し画像

義実家帰省と終活の話

年末から義実家に帰省していました。

正月恒例の義実家帰省イベント。
夫含め3兄弟の家族が一堂に会する唯一のタイミングです。
(それぞれ遠方に住んでいる)

毎年、義母の手作りおせちを食べ、当たり障りのない会話をして解散という流れなのですが、今回少々毛色が変わっていました。

義兄から、事前のアジェンダ共有があったのです。

テーマは、
両親に"何かあった時"の対応どうするか

これを家族で共有すること。
そして、両親の合意を得ること。

義父母は70代。

そっか、いよいよこういう話をしなきゃいけない年代になってきたんだ…。
と、義父母に思いを馳せる(自分の親にも)。

***

正月当日。

一通りの雑談が終わったのを確認し、長兄が切り出す。

「じゃあ、本題に入るけど」

そこで、ざっと一通りの説明。
・介護が必要な場合の対応
・保険証書の保管場所
・IDパスワードの共有法

なかには、
・〇〇円を預り金として長兄に

というものもあったり。
内容は、義父母にも事前にあらかた共有されていたようで、それほど揉めることなく、最後はそれぞれが同意書にサインをして終了(同意書が出てきたときは少し驚いた)。

なんともビジネスライクな話し合いでした。

夫に聞くと、我々兄弟はこのくらい淡泊なのがちょうどいいと。

***

しかし私は、この話し合いを見ていて、なんとも言えない複雑な気持ちになりました。

こういう提案って、子どもからされたら微妙な気持ちになりはしないんだろうか?

もちろん、万が一のとき揉めないために必要なことですし、なんなら、もっと早い段階で共有しておくべき話ではあると思います(自分の心に突然負荷をかけないためにも)

けど、自分からならまだしも、子どもから切り出されるのって、微妙な気持ちにならないんだろうか?

しかも、いままで話題にならなかったことを、自分の介護や死について、いきなり息子とはいえ他人に言語化される。しかも嫁たち(←義母の言い方)も集まる場所で、突然面と向かって話題にされる。

どうなんだろう。。

帰りの道中その疑問を夫に話していると…

「本当は、どう生きたいかって話からしたほうがいいよね」

どう生きたいかの話…。

確かに。
今回、病院や保険、お金の話に終始し、どんな生き方をしたいのか、という内容はありませんでした。
けど、そんな話を2時間程度の集まりですることは、できるんだろうか…。

多分足りない。

それなら、年一の集まりだけでは時間が足りないなら、もっと時間をかけて日頃から話しておくことなのかも。

お金とか、死とか、そういうことを暗黙知にしたままにするのではなく、どんな場所で、どんなふうに生きていきたいのか、それは日常の中で話しておくことなのかもしれない。

突然の話題ではなく。

義母はあのとき咄嗟に
「田舎に帰りたい」
と言っていた。けど、あの場で咄嗟に答えさせることではないような気がするし、本心は、もっとちゃんと話してみないと分からない。(多分本人も分からないと思う)

合理性だけでなく(もちろんそういうことも求められるけど)、感情面の共有はもっと時間をかけて、やっておくことなのかもしれないなと、今回の正月帰省で思いました。



もしかしたら本人は、「そんなこと、子どもたちで勝手に考えて」と思っているかもしれませんね。

私はどうなんだろう。

自分に何かあったとき、立派に対応してくれている子どもたちを見て、嬉しくなるんだろうか。

それとも、申し訳なく思うんだろうか。

はたまた宇宙の一部に還って、それすらどうでもよくなってるのだろうか…

色々な思いの湧く正月帰省でした。

***

ちなみに我が家はエンディングノートを作っています。
情報更新のたび、死に思いを馳せていましたが、最近そういう感傷的なものはなくなり、淡々と更新しています。
子どもが小学生くらいになったら、そのノートと合わせて、どう生きていきたいのか、軽やかに話す場を作っていきたいなと、今回の帰省で思いました。

実親にも、どんな生き方をしたいか聞いてみたいな。

みなさんは、終活どうされてますか?

***

書き終わって思った。
正月noteに終活の話ってどうなの!?😂

以上、新年一本目のnote書き初めでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?