アジア人物史第1巻「神話世界と古代帝国 」はワクワクする話

アジア人物史第1巻が出た。人物が歴史に残る前の物語は神話として語り継がれている。冒頭に番外編として、メソポタミア、インド、中国、朝鮮、日本、中央アジア、東南アジアの神話が紹介されている。マオリの神話と比較してくれたら面白かったかもなどと、思った。
第1章のバビロン王ハンムラビ(在位前1792-前1750)は建築のハムラビ法典でも有名。さすがに印象的な冒頭での登場である。メソポタミアに王国が繁栄しあるいは盛衰を重ねてことが、今から5000年以上も前に楔形文字の原型が発明され戦争や法典が石に刻まれて碑として残っていることから明らかとなったというのが凄い。小国から大国を築いたサムシ・アッドゥ大王(在位前1832-前1775)の活躍などは日本の戦国時代と変わらない。
第2章はペルシア帝国で、アケメネス朝ダレイオス1世(前550-前486)の残した碑文はエラム語、アッカド語、ペルシア語の三言語併記となっている。インドや北方遊牧民に対する遠征も記録として残っている。ギリシア遠征のペルシア戦争はいかに大帝国となっていたかを物語る。マラトンの戦いでアテネ軍がペルシアに勝利し、伝令が勝利の報をもたらして息絶えたという話は「都市伝説」という。(p.218)キュロスⅡ世、カンピュセスⅡ世、アトッサ王妃、クセルクセスらが登場するが、多くをヘロドトス(前484-前420)の書いた「歴史」によっている。
第3章はイエス・キリスト(前5頃-28)。ガリラヤのナザレで育ったが、生まれはベツレヘムと語られている。十字架にかけられた無残な死が、イエスの言葉と生き方を思い起こしキリスト教を生んだ。
第4章は、ブッダ(前448頃-前368あるいはその100年ほど前)。ヒマラヤ山麓の小国の王子として生まれた。「所有」と「再生産」の社会の中で、そこから解放される「法」を説く者として多くの弟子をもった。
第5章は、インドのマウリア朝のアショーカ王(在位前268-前232)。周辺諸国を征服し、インド大陸大半とアフガニスタンまでが領地となり、各地に碑文が残されている。仏教や理想の政治について語っている。「アショーカの生は終わり、彼の死後半世紀ほどでマウリア朝は滅びたが、それは長い『死後生』の始まりであった」(p.290)とあるのは、仏教保護者としての伝説が後世社会に大きく影響したということである。
第6章は、中国の孔子(前551-前479)。周王朝の末期乱世の春秋時代に魯の国に生まれた。3歳で父を17歳で母を亡くしている。73歳で静かに生涯を閉じ、その弟子たちにより思想体系が展開して行った。前漢の初代皇帝劉邦(前292-前195)の代に国教化されたことが儒家の存在を大きくした。2016年9月には、前74年に前漢9代皇帝となった劉賀の墓から5200枚の竹簡が発見され当時の論語テキストが明らかになりつつある。荀子(前4世紀末-前3世紀後半)は、さまざまの思想を諸子百家と分類し自らは孔子の正当な後継者と位置付けている。墨子(前480頃-前390頃)は「節葬」「非楽」で儒家と対立するが、「兼愛」は侵略戦争の否定「非攻」を謳うものである。秦に抵抗した楚の屈原(前343頃-前277頃)については、横山大観の作を紹介し、文明圏の孔子とは違う世界観の文学者として取り上げている。アジアのさまざまな地域で、2000年前に、キリスト教、仏教、儒教といった、現代の宗教や思想の源流が生まれていることは感慨深い。
第7章は中国最初の皇帝、秦の始皇帝(前259-前210)は、統一しながらも短命で崩壊した。母太后の不倫相手とその子らを謀反事件として粛清する話は強烈である。5回にわたり、全国を巡行して記録を残している。その後は、燕の項羽、韓の張良らが覇を競い、そして秦を受け継ぐかたちで劉邦(前256-前195)が漢の初代皇帝となる。
第8章は遊牧国家の君主冒頓単于(?-前174)で、匈奴として秦や漢に対抗した。軍事体制としては10騎を単位とし万騎を率いるのが万騎長で24人いてその上に単于が立つのだという。匈奴の奥方の名は臙脂(えんじ)といい顔に塗る顔料の名から来ているという。(p.457) 東に東胡、西に月氏が居て、秦、漢との間には長城も築かれた。白登山の戦いは劉邦と冒頓単于の戦いであるが、「史記」では40万対32万という。漢の美女を送るという秘計によって劉邦は危機を脱したという。匈奴は弟分ということで、毎年、漢から贈り物をするという形で和親条約が結ばれた。劉邦の死後は妃の呂太后(前241-前180)が実質的に皇帝として君臨した。劉邦の寵愛していた夫人やその子たちが殺された。
第9章は、司馬遷(前145/135-前87頃)で、父親から引き継いで、いかにして「史記」が編纂されたか、そしてその構成について書いてある。匈奴についての記述はヘロドトス(前484-前420頃)の「歴史」のスキタイの遊牧民の習俗と似ているという。南越・東越から朝鮮世界についても記されている。また、賈誼(前200-前168)は、洛陽で最年少の20余歳で博士。屈原の不遇に涙を流し、懐王に召されたが33歳で他界。イエスもそうだが、我が息子も33歳で他界していると、なんだか感じるものがある。司馬遷は賈誼の「過秦論」に共感したり屈原も弔って、二人を偲んでいるという。政治家でなくても、時代を越えて人が人と触れ合えていることが歴史である。
第10章は、王莽(前45-23)で、前漢と後漢の間の周公を理想とした一時代。儒教経義の今文と古文を巧みに利用して王となった。北京にある天壇は、王莽の南郊を清が継承したものという。古文学の解釈は、劉キンによるもので、これは現代の政治と学術の関係を考えさせる。前漢の武帝紀に儒教が国教化されたというのは、班固(32-92)の「漢書」の記述であり、実際は御漢の第3代章帝(58-88)の時代という。 
第11章になって後漢の曹操(155-220)。陳寿(233-297)の「三国志」で漢から正式に王朝を受け継いだ魏の皇帝武帝として語られる。南宋以降は、劉備の蜀を正当とする視点に変わる。毛沢東やその前の魯迅は、曹操を歴史的革新者として評価している。黄巾の乱を討伐したのも曹操である。劉備(161-223)と孫権の連合軍が曹操を破った赤壁の戦いは、小説「三国志演義」で山場として扱われている。2009年に曹操が葬られた高陵が発見され発掘された。曹操は儒教的価値とは異なる現実的効果を求め、個人の能力を重視する「唯才主義」であるという。(p.678)
第12章は中央アジア。クシャーン朝のカニシュカⅠ世(2世紀)。後漢やそれ以後の文献や、出土した像、金貨、容器などから時代の様子が語られる。ササーン朝のトーラマーナ(生没不詳)やミヒラクラ(生没不詳)その後に同じ領域を支配した。地図には、加藤九祚の解説する古代ギリシア都市アムダリア川のアイハヌムなども示されているが、人物として書ける人はいないのであろう。
第13章は東南アジアである。趙佗(?-前137)は中国文化をベトナムに導入した。10世紀半ばにはベトナムの王として位置づけられていたが、民族意識の高まりとともに、中国の支配者とされるようになった。チュン・チャク、チュン・ニー(ともに?-43)は中国の支配を脱する抵抗をした双子の姉妹で一時は王位についたが、すぐに光武帝に鎮圧された。
チュン姉妹は民衆により祠を建てて福神として祀られたという。カウンディア(生没不詳)東南アジア地域にインド文化をもたらした人物とされる。6世紀のカンボディアのサンスクリット語の碑文に記されている。プールナヴァルマン(5世紀初頭)は、ジャワ島最古の碑文に王として記されている。
主要人物については、若干の知識があったとはいえ、古代に武力や知力で活躍したこと、その周辺に居たさまざまな知者、また古代中国における儒教の変遷など、なかなか興味深いものがある。

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