蘆花の「不如帰」に思う
夏目漱石や幸田露伴は、読んでいたが、徳富蘆花は名前のみ知っていた存在。世田谷の芦花公園に蘆花恒春園を訪ね、3棟の蘆花の住んだ茅葺を見て、110年前を想像した。「不如帰」と「自然と人生」を、馬込図書館に見つけ、初めて貸出を受けた。妻の礼子は「不如帰」の中の「千年も万年も生きたいわ・・」という言葉を覚えていると言う。
とりあえず、5日ほどで読んだ。その間、蘆花の兄、蘇峰の住んだ山王草堂を訪ねたりもした。相当に仲が悪かったというが、兄が国粋主義者だったとしたら、弟は平和主義者だったのだろうか?平凡社百科事典によると、富士山に登って貧血で倒れてから、おかしくなり、パラノイア症状があったとか記されている。
水俣で、明治元年に生まれ、9歳のころ西南戦争の生き残り兵士の情景も記憶に強く残っているようであるし、日清戦争に勝ったことが、社会としては、とても大きな声で「戦争反対」などと言える状況だったとは思われない。物語は、上流階級の家と個人がテーマでもある。民法が制定され、暗黙のルールががっちりとしたルールとなった時代。いままでは倫理だったものが、法律になったような社会である。
言葉は古いが、とても読みやすい。おそらくは、まだそんなに小説も出回っていない時代に、戦争描写あり、善人あり、悪人ありが、とてもわかりやすく、軽快に語られていて、声を出して読みたくなる感じもする。慣れないと、漱石は読みづらいが、蘆花はリズミカルだ。当時、若干30歳の駆け出しの小説家の男が兄の新聞に連載したものを、1900年に単行本として世に問うや、12年で100刷りを超え、岩波書店から新装刊として出て、さらには蘆花の死後(57歳で没)、岩波文庫になったのだから、いかに国民の文学になったかがわかる。
未亡人の母と暮らす川島武雄が、陸軍中将の娘片岡浪子と夫婦になる。伊香保での幸せなひと時、結核が発症しての不安と、不条理。文庫本で295ページが上・中・下に分かれているが、中扁三の二(106p.)で「二月初旬、ふと引きこみし風邪の、・・・」ではやばやと結婚生活に暗雲が立ち込める。四の四まで病状が悪化すると、浪子は武雄に「癒りますわ、きっと癒りますわ、―あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう!生きたいわ!千年も万年も生きたいわ!死ぬなら二人で!ねえ二人で!」と言う。
千々岩という嫌なやつのそそのかしにも会って、母から無理やり嫁浪子が実家に帰される。日清戦争の旗艦松島に乗る川島中尉は、負傷を負ったり、片岡中将を助けたり、という場面を経て、下扁九の一(277p.)場面は、片岡中将の屋敷。親類一堂皆集まって、一人一人に、浪子は別れの言葉を告げる。武雄には書を認める。ちょうど7月7日である。本を読みつつ、その日が同じだとまた季節感が伴って、臨場感が湧く。3日後の青山墓地で、父片岡は、武雄に「浪が死んでも、な、わたしはやっぱいあんたの爺(おやじ)じゃ。」と言うところで終わる。
小説のおもしろさはともかく、100年前の日本が見えた気がした。もっとも上流階級のたわいのない愛の物語と言えばそういうことかもしれない。短編集「自然と人生」は、また別の味わいがありそうだ。