高橋源一郎の歎異抄(朝日新書)
NHKラジオで、高橋源一郎の飛ぶ教室をときどき聴いていて、いろいろな作家との話がおもしろく、何か読んでみようと、手始めに「歎異抄」を読んだ。
中学・高校生くらいをイメージしているか、よみやすい翻訳ということを意図したと思われるが、もともと短いものなので、本文はすぐに読めてしまうが、後ろに原文がついていて、改めて高橋の翻訳と比較してみると、少し考える時間が延びる。
特に高橋が特異な解釈をしているというようには思われないが、本人が言うように、書とは、書き手と読み手が1対1であるというということは、読み取り方も他人とは異なるということで、それは確かにそうだ。基本的には「他力」ということの意味を考えるのだ。宮沢賢治が「他力」に疑問を持ち、法華経こそが道だと他人にも説いたことを、自分としてどのように考えるかだ。
歎異抄は全部で18条からなる。その6「ネンブツはアミダからの贈り物だ」では、弟子について述べられるが、つい仲間は失いたくないと思いつつも「去る者は追わず」を教えられる。その13「「人を千人殺してみろ」と「あの方」はいった」では、「おれたちは身の丈にあったことしかできない」がキーセンテンスだ。その16「ほんとうの「回心」は生涯にただいちど」では、日本の仏教に「自力」と「他力」の対立がどうしてこんなにはっきりあるのかを改めて疑問に思った。
「ネンブツと文学」の段での解釈は、高橋は、ネンブツを唱えるだけで救われるということを小説と同じだと言っているのだが、これは初めに言葉ありき、ということになる。般若心経を読んだときに、終わりに言葉ありきだとして納得したように思ったのであるが、これまた生き方の問題なのかもしれない。
高橋は、親鸞35歳のときに還俗させられ流刑になったことが、歎異抄の基になっていると分析している。何が正しくて、どう生きるべきかと、本当に悩んだときに、阿弥陀の救いを見つけたのだろう。立場もある、時代もある。やはり、「つらい」「苦しい」ときに、阿弥陀仏を信ずることになるのだと想像する。ただ、つらい、苦しいときでなくても、寿命には限りがある。それを思うと、正義を振りかざす生き方よりは、自然に生きることの有難さを喜びとすべきなのだろう。
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