「みんなの建築コンペ論」(山本想太郎+倉方俊輔著)に思う
著者の山本想太郎氏とは、さまざまな場面でお会いして、最近では、JIA関東甲信越支部の会報誌Bulletin2020年夏号から4回にわたる連載記事として、イタリアン・セオリーから学ぶものと題し、大倉冨美雄氏の企画で一緒に語った記録を載せてもらっている。
新国立競技場コンペが、どういう問題を抱えていて、それをどう解釈すればよいか、丁寧に論じている。著者の建築設計コンペへの期待は大きく、国交省の指導のもとで、設計者選定方法として、趣旨のあいまいな「プロポーザル」が前に出て、コンペがほとんど消えてしまっていることへの強い危機感の現れが伝わる。ただし、これを受けて、市民が公共建築のためには、コンペをという声をあげるという訳にはなかなかなりそうもない、建築家にも、行政にも、それぞれの思惑もあり、見えにくい問題である。
1922年のシカゴ・トリビューン・タワーの美しいものを求めるコンペの解説は、迫力があった。さらに遡り1835年のイギリス議会議事堂のコンペにおいては、真実が美であるというメッセージを、国民に答えとしてもたらした。シドニー・オペラハウスの場合は、1957年のコンペ終了後、4年の予定が完成までに14年かかり、総工費が当初予算の10倍、設計者の追放という、コンペとしては大失敗に思われることと裏腹に、建築としては大成功で、みんなのものになっている。これら以外にも、コンペの成否の難しさが、多くの事例で紹介されている。
2005年、「公共工事の品質確保の促進に関する法律」が制定され、これがさらにコンペ消滅に追い打ちをかけたのだという。行政の言う品質とは「法律で明示される既存の価値観の再生産」であって、建築界の言う質とは「創造性や革新性を含んだ文化的な存在」のこと(p.166)。要は、品質がすべて法に書けるのなら、専門家の判断は必要ないということになってしまう。このことは、建築基準法の問題点として、建築基本法制定準備会が強く指摘していることと一致する。その昔、住宅の「品確法」について、住宅計画学の鈴木成文先生が住宅とはそういうものではないと、批判されていたのを思い出す。
しかし、一方で、「『いい建築』とはこういうものである」というような理念は、法や制度が掲げるべきものではないだろう」(p.206)という記述もある。イタリアン・セオリーの議論の中で、山本氏から、建築基準法は最低基準を示すという意味で、人の命を守る役割を果たしており、建築基本法が理念を書くことに、むしろやや批判的な発言をされていたことを思い出した。
そしてさらに「専門家と一般社会が『いい建築』とは何かを議論しあうための、共通の言葉すら持ちえていないという不幸な状態にある」(p.218)との認識は、だからこそ建築基本法が必要、あるいは、建築基本法制定の議論が必要となると言いたい。
一般論として、法は、権力側と規制される側の間に境界線を引く。しかし、今、国民の間に共通の認識のない「建築の理念」について、基本法で理念を示そうとすれば、議論が起きることが期待できる。「強・用・美」はもとより、社会資産とか、環境配慮とかの言葉がみんなの了解を得られたとすると、それは、コンペにとっても、プロポーザルにとってもいい方向に使えるのではないかと思う。
コンペによって「いい建築」が作られる期待を込めて、丁寧な分析と提案がなされていることに敬意を表する。しかし、建築基準法によって、建築主が保護されている限り、市場経済優先で「住むことや、美しいこと」と言った価値は、どうしても後回しになってしまう。そんな現状で、市民に開かれた「みんなのコンペ」が実現することは難しいのではないか。今日、我が国で「いい建築」が生まれないことは悲しい現実かもしれない。それを打破するためにも、コンペ復活の議論と建築基本法制定の議論がひとつになることにを多くの人に伝えたい。
建築の専門家は、生きること生活することにとって建築がどのような意味を持っているか、しっかり考えていると言えるだろうか。今は、それが、経済論理によって蹂躙されても、それを防ぐ手段がない。経済に対抗できるのは法律しかないとも思う。まっとうな建築を作るための制度について、専門家の発言がまだまだ足りない。その意味では、多くの人に手に取ってもらう必要がある書だ。