前向きの前が、わからなくなってしまった時は
「もう、逃げたい。なにもかも、もう嫌だ」
目の前の少女の声に、昔の私が重なっていた。
「でもね、逃げるなんて、ずるいよね。このままでも、嫌な場所から離れても、私は弱いまんまなんだ」
私のアトリエで、絵の具のチューブをいじりながら泣いている女の子。莉奈ちゃんは中学2年生。1ヶ月前に、初めてここを訪ねてきた。
「結局今日も、学校さぼって、奈々さんのところに来ちゃってる」
1ヶ月前にここに来て、その一週間後またここに来て、ここ二週間、平日は毎日ここに来ている。
「奈々さんにも迷惑かけちゃうのに……」
本当は、大人の私は、ご自宅か学校に連絡しなくちゃいけないのだけれど、この子を見ていると、どうしてもできなかった。しばらくだけ。この子の気持ちが落ち着くまで。そう思って、今日まできてしまった。莉奈ちゃんは親戚でも近所の知っている子でもなく、私のアトリエを見つけて、ドアを開けてくれた子だった。1ヶ月で変われと言う方が難しいし、そんな短期間で変わっているなら、とっくにこの子は学校で楽しく過ごせている。
「私は、迷惑じゃないよ。むしろ……」
むしろ、私の方が、彼女と関わりたいのだと思う。まるで、昔の自分を見ているようで、彼女を見捨ててしまったら、自分を見捨てるのと、同じになってしまうから。
「乗り越えるまで、諦めない」
小さい頃から、私が決めていたことだった。自分で決めたら、そのことを最後までやり通す。それで生きていけると思っていたし、そうしなくちゃ、いけないと思っていた。そして、そのやり方で、私は目標だった美大に入って、絵を描いていた。毎日が楽しくて、生き生きして、夢中になって作品をつくっていた。
「お前さ、本当にやる気あんの? お前の絵、何のために書いてんのか、さっぱりわかんない」
美大に通っていた3年生の時、同じ専攻の先輩の村山さんが、絵を描いているところにズカズカと入って来て、そう言った。
「向いてないならさ、早く辞めた方がいいって。苦労するぜ」
おどおどしながら、顔を上げると、村山さんの顔には薄ら笑いが浮かんでいる。こんな奴に、言われたくない。自分の作品づくりさぼって、ちょっかい出してくるような奴に、言われたくない。
「何だよ、その目。せっかく本当のこと言ってやってんのに、失礼な奴」
別に、尊敬してない人に言われる言葉なんて、気にしてちゃだめだ。
「親切で言ってやってるんだぜ。こんな言いにくいこと」
村山さんは私を睨みつけて、言い捨てると、大きな足音を立てて、出て行った。
その日から、その先輩は私を見つけるたびに部屋に入って来ては、私に自分語りをしたり、説教をしたり、私を否定したりしていった。
「ねえ、菜々。最近、村山さんに嫌がらせされてない?」
村山さんに絡まれ始めてから2ヶ月くらいが経った頃だった。友達の美希がご飯に誘ってくれた。
「ごめん。私もこもりっきりで、気がつかなくて。声かけるの、遅くなっちゃったね」
美希は1年生からの親友で、陶芸を専攻している。お互いに制作も忙しくて、学部棟も違うから、ゆっくり会うのは久しぶりだった。
「大丈夫。私に足りてないことが多いのは事実だし」
あまり美希に心配もかけたくないし、自分が頑張ればいいものと思っていたから、詳しくは話さずに、答えた。
「おせっかいかもしれないけど」
と美希は心配して、
「菜々の絵、私はとっても好きだし、奈々の色使いとか、褒めてる声もよく聞くよ。あの村山さんって、さぼってて基礎もわかってないような人だよね。気にしちゃだめだよ。絶対」
と伝えてくれた。
「しばらく私も奈々も忙しいけど、無理、禁物ね! 何かあったら、すぐ行くから」
でも、村山さんは一層頻繁に私のところにやってきて、私が一人の時は自慢話をして、誰かがいる時は、私の粗探しをして貶してきた。
大丈夫。私はやるべきことをやるだけ。こんな奴の言うことに、いちいち感情を揺さぶられちゃ、だめだ。
そう思っていたのに、怒りの感情が勝ればよかったのに、そんな言葉を浴び続けていると、私が悪いんだ、とそんな気持ちになっていく。言われないようにしなきゃ。足りないことを埋めなくちゃ。おどおどしながら、散った神経を作品に集中させる。耐え切らなくちゃ。なんとかしなくちゃ。
そう考えているうちに、1年は過ぎて、山村さんは留年することも、院に進むこともなく、卒業して行った。
私は、4年生はのびのび過ごせて、卒業制作も賞をもらえて、就職先も無事に決まった。
私はこの時、どこでも何とかやっていける、と思った。
そのままの気持ちを保って、会社に入って、4年が経った。
デザイン系の会社には入らず、作品製作は自分で続けられるように、定時退社できる会社を選んで就職した。家にいる時は絵を描いて、仕事も自分なりにやりがいを見つけて毎日過ごしていた。
でも村山さんみたいな人がたくさんいた。ずっと例外だと思っていた人が、普通の世界もあることを知った。村山さんみたいに進んで攻撃してこなくても、みんな自分を守ることに必死だったり、面倒臭くて無視したり、人のせいにしたり。その中で私は、ただ、耐えて平気な顔をしているしかなかった。
知らないことで、みんなの前で怒鳴られて、関係のないことで、呼び出されて説教をされて、得意だからお願いしたいと頼んできた後に、仕事できないねと笑われる。
何度も辞めたいと思ったけれど、会社なんてこんなものかな、と言い聞かせたりもした。私がみんなにどんな風に映っているかなんて、わかんないんだもの。きっと、足りないことや気に触るような良くないところがあるんだ。何とかやっていける、なんて思い上がっていたんだ。頑張るしかない。仕事ができるように。みんなに認めてもらえるように。
涙が出て、自分がわからなくなって、自分を責めて、涙が出て、会社に行って、また自分が嫌いになる。
「みんな君の性格はおかしいと思ってるよ」
嫌いな人の言葉に、こんな小さなことに、傷ついている自分も嫌だった。
何もかもが嫌で、でも、結局自分が悪いんだから、別のところになんて行ったら逃げなんだ、と追い込んで、また傷つく自分に嫌気がさす。
私は何のために頑張ったらいいのかわからなくなって、今までの自分までだめだったような気がして、なんのために今、耐えているのかも、わからなくなった。
どこでも生きていけると思ってたのに、ちゃんと耐えていけると思ったのに。いつだって自分次第でなんとかなる。なんとかしなくちゃいけない。そう思って、過ごせてこられたのに。
だけど、思い返せば、大学生の時の私は、あからさまに攻撃してくるのは村山さんだけだった。1年経てばいなくなるとわかっている村山さんだけ。それに、何より、私のことをわかってくれる人が同じ環境にいて、真摯にアドバイスをくれる人もいて、私の作品を評価してくれる人も叱ってくれる人もいて、かばってくれる人もいた。会社と大学は違うけれど、居心地の良い環境だった。だから、耐えられたし、耐える目的があった。この大学で学んでいたい。卒業制作で賞をとって、卒業する。そして何より、作品をつくりたかった。この先も絵を描き続けられる、自分の土台をつくりたかった。いつも心の中でその目的が光っていて、見失わずにいられた。
でも、ここでの目的は? 生きていくため。毎日、泣いているのに?
このままここで、努力をして、幸せな私はそこにいる?
早く、前に進まなくちゃ行けないのに、
でも、前って、一体、どこ?
一人静かにになると、頭の中で問いが、堂々巡りに、塒を巻く。苦しくなって、抱えきれなくなって、涙が出て、今日、会社、休んでしまおうかな。水曜日の朝、アパートの玄関で足がすくんで立ち尽くしている時、お母さんからの電話が鳴った。
「ねえ、奈々、お母さんのお店の横に、あんたのお店つくったら?」
「えっ?」
「会社に入ってからも、絵、描いたり、勉強したりしてたんでしょ」
働き始めてからもボランティアで友達のwebサイトのデザインをしたり、趣味でイラストを描いたりしていたけど、私は家族のところに戻っても、いいんだろうか。
「お母さんのお菓子屋さんの横で、娘の工房、なんて素敵じゃない」
心配かけたくなくて、あまり話さないでいたけれど、お母さんにはお見通しだった。半分泣きそうに、明るい声で話してくれる。
「いいのかな。お母さんは自分でやってきたのに。それに会社の嫌なことだって、逃げちゃ……」
「逃げなんかじゃないよ」
お母さんは、私の言葉を遮って、
「自分でやってく覚悟があなたにできるなら、家に帰っておいで」
と言ってくれた。大丈夫。小さい頃から、諦めない子だから、大丈夫、と。
乗り越えるまで、諦めない。子供の頃、そう言った時の私の気持ちは、とても晴れやかだった。大変だし、泣きたくなるけど、でも、その先に手に入れたいものが見えるから、苦しいのと同じくらい、わくわくしていた。今、その時の感覚を、思い出した。
思い切って、私は会社を辞めることにした。
それから、母親がお店をしているその横に、アトリエをつくった。学生の時から会社に入っても続けていた制作の活動を、ちゃんと仕事のかたちにした。贔屓にしてくれていた人や応援してくれている人がいたから、広げる方向が見えた。
仕事にすることが覚悟のいることだっていうのは、その環境にいたから嫌という程わかるけれど、でも、ちゃんと光は見えている。絶対に見失わない光と、今日より明日、明日より一年後、数年後生き生きとしている自分の姿が見えている。その方向に向かって、夢中になって過ごしていた。
そして、莉奈ちゃんと出会った。
私が前を向けた時につくったアトリエに、前がわからなくなった莉奈ちゃんが、ドアを開けてくれた。もしかしたらきっと、この時にはもう彼女は、前がどこなのか、気が付き始めていたのかもしれない。
莉奈ちゃんはここにきてから、一生懸命、絵を描いていた。とても繊細で、優しい色を重ねていた。何度も試して、探って、本や作品からもたくさん学んでいた。そして、その時の莉奈ちゃんの顔は、嫌なこと全部なかったみたいに、ただ、生き生きとしていた。キャンバスを見つめる顔が、もっと先を見つめるみたいに、わくわくしている。
「私、前を向いて進まなくちゃ、って思ってるのに、逃げてばかりで、毎日ここに来てる」
莉奈ちゃんは絵の具のチューブをいじりながら、呟いた。
「私って、やっぱりだめなんだ……」
また新しい涙が、彼女の手の上に広がった。そんなことない。莉奈ちゃんは、ちゃんと、進んでいる。昨日より、今日の莉奈ちゃんが、出会った時より、今の莉奈ちゃんが、笑顔になっているのを、私は見ていたよ。
「莉奈ちゃん、本当に逃げてばかりって、思ってるの?」
莉奈ちゃんの横に座って、ゆっくり、声をかけた。
「えっ?」
莉奈ちゃんは、絵の具をいじる手を止めて、私を見る。
「私、真面目な大人じゃないからさ。本当は学校に帰してあげなちゃいけないんだろうけど」
莉奈ちゃんの表情が穏やかなのを確認して、話を続ける。
「莉奈ちゃんの描いている姿見ると、どうしても、もうちょっと見ていたいな、って、思っちゃうんだよね」
「えっ?」
「だってね、莉奈ちゃんの絵、どんどん磨かれてくんだもん。見てるの、気持ちいいよ。それに、すっごくいい顔してる。描いてる時の、莉奈ちゃん」
莉奈ちゃんは、目を見開いて、聞いていた。
「もうちょっと、居てもいいの?」
今度はすがるような目で、私に言った。
「私、描いている時、とっても楽しくて。次は何描こう。次はこんな風に描けるようになりたい、って。どんどん先のことを考えられるんだ。それに、」
莉奈ちゃんは、こんなにもはきはきと、自分の思いを言える強い子なのだ。
「それに、私、小さい頃からずっと、絵を描く仕事をするのが、夢なんです」
この子はちゃんと前を向いて、進んでいる。前を見つけている。狭い世界の中だけで、生きなくたっていいんだ。
「莉奈ちゃんは、自分で私のお店を見つけて、訪ねてきてくれた。絵を描くことだって、莉奈ちゃんが自分で始めて、もうこんなに夢中になってる。それってすごいことだよ」
この日から、しばらく莉奈ちゃんは来なかった。
でも、1ヶ月ほど経った頃の土曜日、莉奈ちゃんがひょっこり現れた。
「私、美術の大学に行きたいから、高校受験のために学校、行くことにした。あと1年なら耐えられそうだから。誰も私のこと、知らない高校に行くんだ」
「そう」
「ねえ、土日だけ、遊びに来てもいい?」
「もちろん」
「あっ、でも、すごく辛い日は、平日も……」
「私は、いつでも、ここにいるよ」
私はとっても時間がかかったけれど、莉奈ちゃんは、もう気がついて、自分にとっての前をちゃんと向いて、進んでいる。進むことと逃げること、莉奈ちゃんは自分の中でちゃんと物差しを持っている子だ。
「また来るねー!」
莉奈ちゃんは、にこにこしながら駆けて行った。もしかしたら明日、学校で辛いことがあるかもしれない。追い詰められる夜があるかもしれない。でも、莉奈ちゃんには、絵を描くことがある。絵を描くことがあっても、押しつぶされそうな時には、何かから離れて、何かを選び直す選択肢もある。
始めることも、続けることも、手放すことも、全部、選んで、決めて、進むことに変わりはない。大事なものさえ、見失わなかったら、どんな風に歩いたって、大丈夫。
前向きの前は、自分がご機嫌になる方向のことだ。逃げかな、と迷った時、自己卑下しそうになった時、そっと、その方向を選んだ私に問いかける。
「ねえ、今より、楽しい?」
楽しさまでの過程には苦しさや大変さは付いてくるけど、付いてくる苦しさじゃなくて、苦しさだけが目的だったら、そんなのは早く捨ててしまえばいい。
私は辞めることを選んで、新しく始めた今がある。
逃げたんじゃない。自分を諦めたくないから、選んだんだ。
大きな決断から、日常のことまで、そうやって選ぶ物差しだって、持っていてもいいんじゃないかな。元気な時は、考えなくったって、乗り越えたり、踏ん張ったり、ガンガン進んだりできるんだから。
一歩が苦しい時、迷っている時、前に進まなきゃ、そうやって思い詰めたら大変かもしれないけれど、その選択の先の自分が「今より楽しいよ」そうやって迎えてくれるのなら、きっとそこが自分にとっての「前」だと思う。莉奈ちゃんが、彼女の見つけた前を向いて、楽しい明日へ駆けて行けますように。進んでいく少女に手を振りながら、私も前を向き続けようと、そう思った。
*このお話は、フィクションです。
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