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【物語】味わうべき恋かを確かめることは、美味しい果物を選ぶことと似ている《夢芽の自由ノート》

私は、果物を買うのが、怖い。今日のりんごも、つやつやと鮮やかな赤をしていたのに、包丁を入れたら、中心が傷んでいた。冴えない、くすんだ、薄茶色。放っておいたら、どんどん広がって、りんごの身を蝕んでいく。柔らかな黄色を、染めていく。私は、この色が大嫌いだった。柔らかな黄色と薄茶色、どちらが本当なのかわからないこの感じが、気持ち悪かった。なのに、果物を買うたびに、はずれを引く。私は、包丁を入れて、その果物が傷んでいることを確かめるたびに、自分の運の無さを確認しているようで、虚しい気持ちになった。また今日も、彼は帰ってこなかった。

彼と出会ったのは、半年前だった。彼が別の支社から移動して来た日だった。歓迎会の帰り、降りる駅が同じになった。ただ、それだけだった。なのに、お互い知っているいつもの帰り道のように、電車での会話を続けるまま、あまりにも自然に電車を降り、改札を通っていた。点滅する街灯に、春の風が、駅の構内に向かって流れていった。生ぬるい夜の風に、少し酔いが覚める。もう、最寄駅に付いていたんだと、その時になって、気がついて、彼が同じ駅に降りていることを、今になって気がついた。なんだか、とても、心地よかった。
「同じ駅だったんですね」
ほろほろとする足取りは、口元を軽くさせる。私は、何気なく会話をしてしまっていた。
「そうみたい、ですね」
彼は、なんだか冗談を言うみたいに答えた。それが、なんとも言えずに、嬉しく思えた。
「ミキさん、家はどちらですか」
「あっち。って、名前、覚えてくれてたんですね」
私は、指をさしながら、笑った。
「ええ。僕もそっちです」
彼はまた、冗談みたいな口調で言った。柔らかく、茶目っ気のある声で、ありきたりな言葉を交わす。
「じゃあ、途中まで、一緒に」
私は、なんの根拠もなく心を許し、春の夜風に流されるまま、彼と歩いた。駅から家まで、15分ほど。また、電車の続きのように、たわいのない会話をした。彼はこの支社への配属が希望だったこと。彼は2つ上なこと。部長が来る前に聞いた噂通りでやっぱり苦手だと思ったこと。今日の料理では、唐揚げが一番おいしかったこと。彼は、年上の安心感と一緒に、年下と話しているようなときめきがあった。私は、なぜか、彼の会話に頷くばかりだった。不思議な感覚だった。そして、私は、彼の言葉を精査することなく、どの言葉にも微笑んでいた。今日の夜風みたいに、心地よく私の体を吹き抜けるだけだった。そのことには、まだ、わたしは気がついていなかった。
「あ、もうここなので」
ためらいもなく、私は自分の住んでいるアパートを指差していた。
「そうなんですね」
「松田さんは、もう少し向こうですか」
「ええ」
「それでは、ここで」
「おやすみなさい、ミキさん」
「あっ。おやすみなさい」
私は、軽く会釈をして、なんの迷いもなく、家に向かった。普段なら、なるべく家を知られないようにする努力くらいしていたはずなのに、ほろほろした足取りのまま、部屋のドアに向かい、ほろほろとした気持ちのまま、部屋のドアを開けた。204号室。彼はそのまま、まだ私を見ているだろうか。そんなことに少し意識して、背筋を伸ばしている自分がいた。もし、彼が見ていた、部屋の場所までそっくり見られているのに、なぜか、最後の、おやすみなさい、が小さくささやかに、こだましていた。

「ただいまあ」
誰もいない部屋に向かって声をかける。いつもの癖だった。暗い部屋はしんとして、外よりも少し、冷たく感じる。
「おやすみなさい、だって」
別に特別なことじゃないのに、心が少し、浮ついていた。浮ついているのと同時に、あまりにも自然な帰り道の不自然さにうっすら疑問が湧く。でも、そのうっすらは、ほろほろとした気持ちに、あっというまにかき消されてしまった。

「ねえ、ミキ。昨日どうなったの?」
次の日の会社のコピー機の前、同期のサオリが肩を近づけてきた。なぜか、からかい口調で私に話しかける。
「えっ、帰り道、同じになっただけだよ」
「うっそだあ」
にやにや笑いながら、
「だって、松田さん、まだアパート決めてなくて、会社の近くのマンスリーホテルに泊まってるんだよ。なのに……」
ははっ、と笑った。わたしの頭に、一瞬、ほろほろとした感覚が蘇る。ってことは、と、その続きを考える前に、サオリが真顔になった。
「よかった。何にもなくて」
ぽんっ、と私の方に手を置いて、じゃ、っと席に戻っていた。私は、コピー機に目線を戻す。シャーっと紙が飲み込まれては、ガシャガシャと刷られて、私の手元にサーっと出てくる。もう5ミリ分くらいは刷られているのに、手に取るとサイズがずれていた。
「あちゃー、やり直しじゃん……」
小さく、ため息をつく。席に戻り、パソコンで設定を確認しながら、サオリの真顔を思い出す。あの一瞬の顔は、何だったんだろう。松田さんは、一体どういう人なんだろう。それとも、サオリも、気になっているとか。いや、も、って何だ。私は、たまたま帰り道が一緒になっただけだ。まあ、それも違ったんだけど、と、頭の中でくだらないことを繰り返す。こんなことをしていたら、またサイズを間違える、と、両頬をパチンと両手で挟んで叩いた。数人の顔と頭を通り越した斜めの先に、松田さんが、一瞬笑っていた。

それから数日、私は挨拶と業務連絡以外は、松田さんと話すことはなかった。ちょっとした世間話もしなかった。というか、業務も、同じかといえど繋がりがなかったので、厳密にいうと、本当に、挨拶しか交わさなかった。「おはようございます」と「お疲れ様です」以外は、何もなかった。
「今日も話さなかったなあ」
家に帰って、カップラーメンにお湯を注ぎながら、そんなことを考えていた。いやいや、何考えてんだ、私は。会社に行ってるんだ。それが、普通だ。でも、春の夜風とほろ酔いの体温が蘇る。それから、サオリから聞いた、あの日の道は松田さんの帰り道ではなかったこと。不思議と怖いとは思わなかった。私は、すべてのことを、都合よくとらえていた。私の見たいものに、出来事を組み立てていた。

歓迎会の日から、2週間ほどがたった金曜日。今日は、出張やら外回りやらで、フロアの人数がやけに少なかった。こういう日に限って、電話はたくさんかかってくる気がするし、他部書からの雑務も多い気がする。それらに自分の仕事が押される上に、相手方とのやりとりが立て込んでいた。昼休みに差し掛かったけれど、切りまでやろうとパソコンに向かっていた。
「ねえ、ミキさん」
「えっ」
と言いつつ、一瞬で反応していた。何を話しかけてくれるんだろう。席から見上げる私の目は、多分、大きく開かれて、笑っている。意識してやっているわけではないのに、その目になっていることは、認識できた。私は、どうも、おかしい。
「今日、飲みに行きません?」
今度は心の中で、えっ、と言葉を出し、フロアを見渡すと、誰もいなかった。
「みんな、お昼です」
松田さんは、私の心を察したように、言った。
「ええ。あ、あの、飲みに行くの、ぜひ」
「今日、残業は?」
「立て込んでいるので、少し」
「じゃあ、終わり次第、連絡ください」
そう言って電話番号のメモをくれた。
「電話でも、ラインでも」
そういうと、さっさとフロアを出て行ってしまった。しまった、というのは変かもしれないけれど、私は、完全に彼のペースだった。そして、浮き足立っていた。

その日の夜は、とても楽しかった。私は、ただ、笑っていた記憶しかなかった。何が楽しかったのか、何が面白かったのかわからないけれど、彼にはなぜか笑ってしまっていた。部屋の中なのに、あの日の風に吹かれる感覚と似ていた。彼の口調は相変わらず冗談みたいで、私は、自分が何を話したのか、覚えていなかった。多分、あまり自分のことは、話していなかったのかもしれない。

それからというもの、彼は、二人きりの時に、誘ってきた。なんだか、二人きりの瞬間が増えた気がする。連絡先を知っているのに、直接誘ってくることばかりだった。そして私は、必ず行っていた。今日を、いつも、空けている自分がいた。

何度目かの食事の帰り、なぜか、最初にあった日のように、彼と一緒に、同じ電車に乗り、同じ駅で降り、一緒に改札を抜けていた。私はそれに気がつきながら、気がつかないふりをした。あまり意識している気もしなかったくらい、自然にそうしていた。私は、期待していたのか、流れに身を任せていたのか、自分でもわからなかった。多分、当たり前のように、期待していたのだと思う。夜風は、もう、ほろ酔いの頭を冷ましてはくれなかった。何も聞かずに、彼の話を相変わらず聞いて、私は笑っていた。知らないうちに、私の部屋のドアの前に、ついていた。
「今日は、一緒にいて、いいよね」
初めて彼は、タメ口で言った。私は、頷いた。とても、自然なことだった。ドアを開け、彼を部屋の中に入れた。心臓がいつもより大きくなる。息が、浅い。半年ぶりだ。前の彼氏と別れてから。二股をされていたのがわかって、すぐに別れた。そんなことは、どうでもいい。私は、目の前にある、この空気に酔っていた。全部、身を委ねてしまいたかった。何もかも。
一晩一緒に過ごした彼は、ますます自然に寄り添うことができた。私は、彼が好きだったのだと、意識した。彼の匂いが、とても心地よかった。なんだか、彼の全部を知っている気がした。そして、私の全部を受け入れてもらえているような、そんな気がした。
そして、朝はあっという間に来た。私の寂しさを察するように、彼は、私の頭を抱きかかえながら撫でてくれる。
「ねえ、毎週来てもいい?」
私は、彼の寝起きの顔を見つめてから、小さく頰にキスをした。
「もちろん」
幸せだった。あまりにも滑らかに、幸運が訪れた。少しは疑問に思うけれど、でも、こういうことが、運命というのかもしれないと、その疑問はあっという間にかき消された。
その日から、彼は毎週末、私の家に泊まった。そしてそんな日々を繰り返しながら気がつくと、一緒に暮らしていた。

「ねえ、ミキ、今度ご飯行こうよ」
会社の昼休憩。向かいの席に座ったサオリが誘った。
「いいよ。あっ、でも、平日でもいい?」
そう答える私に、サオリは見透かすように笑った。
「ほら、やっぱり」
「えっ?」
「だから、誘ったんだよ。最近、ミキ、なんだか不自然。」
サオリは、勘がいい。そして、会社の同期、という以上に仲良くしていた。友達、という方が正しい。
「ごめん。あ、ねえ、今日でもいい?」
「だめ。土曜日に私のうちね。私がご馳走するから」
「わかったわかった。土曜日ね」
「もう、最近全然会ってくれないんだから」
サオリは、私が松田さんと暮らしていることに気づいているんだろうか。そもそも、付き合っていると、勘づいたのかもしれない。それより、私は、どう不自然なんだろう。サオリが気がついているってことは、他の人にも、バレているんだろうか。昼休憩が終わって、席に座って、パソコンに向かい手を動かしながらも、そのことで頭がいっぱいだった。

「ねえ、シンジ、土曜日なんだけど、友達と遊びに行ってくるね」
この頃にはもう、松田さん、から下の名前で呼ぶようになっていた。
「うん、行っておいでよ」
シンジは、ソファでくつろぎ携帯を見ながら、快く返事をする。
「ありがと」
無意識に私は、サオリと行くことを言わなかった。言わなかったんじゃなくて、言えなかったのかもしれない。

少し複雑な気持ちのまま迎えた土曜日、サオリの家はもう何十回も来ている。サオリは、料理が上手だ。今日も、玄関からもういい匂いがしていた。
「やっほ。来た来た。美味しくできたぞ〜。上がって、上がって」
サオリはいつも、優しい。
「おじゃまします〜」
部屋に入ると、もうテーブルに料理が並んでいた。煮込みハンバーグになすがとろけていて、野菜たっぷりのポトフが添えられている。
「今日はね、パンも焼いちゃったし、デザートもある」
サオリは、ちょっと得意げな口調を作って、私を楽しませてくれた。
「昼間だけど、開けちゃうか!」
サオリは、冷蔵庫の前から、片手にビール、片手にワインを持って、
「どっちがいい?」
と聞いた。
「ワインで!」
多分、サオリとゆっくり話したかったんだと思う。
一緒に席について、食べ始める。
「うまあ! さすが、サオリ!」
おいしくて、楽しくて、久々にこんなうきうきした声を出した気がする。
「でしょ。食べて、食べて」
サオリは、私とシンジのことについて、もっと聞いてくると思ったけれど、何も聞いてこなかった。たわいもないけれど、だからこそ楽しい、ただのおしゃべりをした。最近大変だった仕事の話。今シーズン見ているドラマ。湿気で髪がまとまらないこと。新しい服が欲しいけど、着る服はたくさんあるから、買おうかどうか迷うこと。私が果物や多分野菜もハズレを引きがちなこと。
「この前もさあ、りんご買ったらね、」
なんとなく私が話すと、
「そりゃあ、季節外れだもんねえ」
と、サオリに笑われた。
「どうせ、『甘くて美味しい!』でポップだけ見て買ったんでしょ」
料理が好きなサオリは、私がろくに野菜や果物を買わないことも、細かいことへの注意が向かないことも知っている。
「よーく見るの。最初は、外すし、後からも外れることもあるんだけど、だんだん見た目と中身がリンクして、想像できるようになってくる。まあ、特徴も調べたりしたんだけどね」
「ふーん。ちゃんと料理しているサオリは偉いや」
「まあね。って言っても素人感覚だけどっ」
サオリは、からっと笑っていい終えると、
「そろそろデザートにしますか」
と、テーブルのお皿を片付けに行くと、ブルーベリーのタルトを持って戻って来た。
「見て。季節にぴったり。サオリ特製ブルーベリタルト」
サオリのブルーベリータルトは、とても美味しかった、ブルーベリーも、甘さも酸味も、最高だった。いっぱいのお腹なのに、爽やかに口に運びたくなる。ケーキに夢中になっていると、
「よかった」
とサオリが言った。
「えっ」
「だってさ、ミキ、ちゃんと笑った」
サオリは微笑みながらも心配な表情をしていた。
「ミキ、いま幸せ?」
「えっ」
「誰と付き合っても応援するけどさ、ちゃんと見なよ。自分の気持ちも気がついていることも、ごまかしちゃだめだよ」
私は何か、ごまかしているんだろうか。私の気持ちは、彼を好きなんじゃ、ないんだろうか。
「もう、前とか、前の前とか、前の前の前みたいに、運がなかった、とか、ハズレだった、とか言ったら、怒るからね」
サオリの口調は優しかったけれど、どこか、怒っているようにも見えた。どうしてそんなこと、言うんだろう。

でも、それから、私はそのことが、頭から離れなかったし、シンジは週末、あまり帰ってこなくなった。ほとんど、帰ってこなくなった。

そして私は、サオリの言葉も忘れて、りんごを買った。季節も考えず、手触りも美味しいとされる見た目も意識せず、ただ頼りない私の美味しそうで、選んでいた。ポップには、甘くて美味しい、と書いてあった。私はハズレを引く、といながら、最初から、何も考えていない。何も見ず、何も見ようとせず、上辺だけのりんごを見て、ただ手に取っているだけだった。
そして案の定、包丁を入れると、りんごは中が腐っていた。そうやって初めて、私は、サオリの言葉を思い出した。この前のサオリの家でのこと。それから、シンジと初めてあった次の日、同じ帰り道ではないと教えてくれたこと。それから、サオリがご飯に誘ってくれた時に、私がどんな顔をしていたか。
シンジのことだって、本当は何も知らない。いや、大切にされていなかったことを見ないふりして、中が見えるまで関わろうともせず、私は、表面上の甘い空気に流されていただけだった。
会話の中の嫌悪感も、私は違うと思うことも、シンジには言わなかった。言えなかった。楽しかったから笑っていたんじゃない。警戒していたから、笑っていたんだ。自分の気持ちを言う隙をくれなかったから、言えなかったんだ。そして私は、シンジに一度も、好きと言われていなかった。私たちはお互いに、中身なんかに興味はなかったんだ。つやつやと鮮やかに見せかけた偽りの上で、ただ、甘えていただけだった。前の恋も、前の前の恋も、前の前の前の恋も、全部。情けなかった。ただただ、自分が、情けなかった。
そして、サオリのことを思い出す。私の中身まで向き合ってくれるサオリ。こんな私の薄茶色の部分を知っていても、仲良くしてくれるサオリは、きっと人と関わると言うことに覚悟があるんだと思った。そして、その薄茶色の部分さえ、取り除いたり広がらないようにしてくれる優しさを思い返した。私は、大切な友人にちゃんと向き合えているだろうか。情けなさでいっぱいだけれど、サオリがいてくれることに感謝した。向き合う一人に思ってくれていることに、胸の中が、じゅわっと滲んだ。果物の肉を噛み締めて果汁が広がるみたいに、甘く、爽やかな気持ちが広がった。
大切な関係には、覚悟が必要だ。ほろほろとした ではなく、今胸の中に広がったみたいな、甘酸っぱい爽やかな覚悟が。私の嫌いな薄茶色を受け入れてもいいと思える優しい覚悟が。
私は携帯をとって、電話をする。
「ねえ、シンジ。今までありがとう」
私の中の薄茶色が少しだけ、小さくなったような気がした。

*このお話はフィクションです。
文・イラスト:青縞夢芽

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