伝えなかった告白を、この世界に残す方法って、あるのだろうか
耳の奥が、とくん、と鳴った。深夜11時30分。街中、駅前の交差点。南西の角の街路樹の下。少し影になったその場所で、恋をしてしまった。
ただの路上ライブ。知らない男の人。だけど、すごく、綺麗な声。冬の夜の空気に馴染む声。この日の私の荒んだ心に、どうしても滲みてしまう。ああ、どうしよう。数年ぶりに、泣いてしまった。
「あーあ、明日も、つまんないのかな」
その日、小石を蹴っ飛ばすみたいに、歩いていた。仕事の帰り、いつもこんな気持ちになる。最近の私は、とんでもないくらいに不甲斐ない。そう思って甘えていることすら、情けなくなってくる。仕事も最低限のことはこなしているつもりだし、人に迷惑はかけていないつもりだった。だけど、それだけでは、やっていけない。もう、社会人になって3年も経つんだから、言いたいことくらい言えなきゃいけないのに。
「お前ってさ、真面目にやってるけど、つまらないよね」
私は、化粧品会社の営業をしている。ドラックストアの売り場を作ったり、最近はデパートのイベントの企画のチームにも参加していた。
「はい……」
次のイベント企画の進行状況の報告を、上司にしに行った時だった。つまらない、とはっきり言われてしまった。もうちょっとオブラートに包んでくれたっていいのに。上司の言葉はあまりに的確すぎて、何も言い返せなかった。
「もう3年目にもなるんだから、言いたいこと言えよ、なんて、言ってやらないぜ」
「わかっています……」
私は、言いたいことが、言えない。いつもタイミングを逃している。会議の時、アイデア出しの時、もっとこうした方がいいと思っても、一歩リズムが遅くて、結局言わずに終わっていた。だから、害もない代わりに、何の影響もない人に、なっていたのだと思う。売り場作りだって、イベントの企画だって、少ない人数で最大限のいいものを作らなくちゃいけないのだ。どう考えたって、私は邪魔者だ。ああ、言う勇気があればいいのに。気がついたことを、そのタイミングで言える、勇気。だけど、言う勇気以前に、自分の考えに自信がないことが、一番情けなかった。
そして、追い打ちをかけるように、上司の言葉。
悪いのは私だとわかっていても、やっぱり、つらい。
「あーあ、明日、嫌だなあ。これから、どうすればいいんだろう」
やさぐれながら、いつもの角を、曲がり忘れて大通りに出てしまった。深夜11時半の交差点。街路樹の下で、路上ライブをしている人がいた。路上ライブと言うのにも地味なくらいだった。
路上ライブだから、きっと許可を取っているんだろう。せっかく街中の一番大きな交差点を取ってるっているのに、彼は隅のちょっと奥まった、影になるところに立っていた。
もちろん誰も立ち止まらない。信号を待っている人も振り返らない。マイクを使っているのに、その声はまるで、そこに存在しないみたいだった。
存在しないみたいに、心地よかった。
私は、私だけ気がついた宝ものみたいに、彼の歌を聞いた。月に照らされたすすきみたいな声だった。高くて、ちょっと掠れて、だけど優しい声だ。
なんだか、今日の私を許してくれるみたいだった。心の隙間に染み込んで、心が壊れないようにしてくれる。
「この声、好きだ……」
不意に口から漏れたことばに気がついた時には、目から涙が一緒に溢れている。
明日は、もうちょっと頑張ってみてもいいかもしれない。
歌っている彼に気がつかれないように、彼の声を耳に残したまま、私はその場を立ち去った。
その日から私は、いつもの道を通りすぎ、遠回りをして帰るようになった。わざと帰りを遅らせて、深夜11時30分に、彼と出会った交差点の前を通った。
毎日そこを通っていると、彼は週に4日、決まった曜日にこの交差点にいることを知った。私は、ここが通勤の道であるみたいに、自然に通りすぎるのを心がける。だけど、あんまりにも苦しい日は、立ち止まって彼の歌を聞いた。私の不甲斐なさは一向に解消されないけれど、だけど、彼の歌があると思うと、いつもより頑張れた。
そんな風に過ごして、2週間くらいがたった。初めのうちはあんまり心地よくて、声しか耳に入ってこなかったけれど、だんだん歌詞も聞こえてくるようになった。囁くみたいな歌詞だった。繊細で、切ない。だけど、芯がまっすぐ通っている。最初のうちは、どうしてそう感じたのかはわからなかったけれど、よく聞いていると、その理由がだんだんわかった。
彼の歌の中の「私」は、覚悟ができていたのだ。
どんなに繊細でも、どんなに切ない結果になったとしても、それでも、ちゃんと傷ついて、そして立ち直る覚悟ができていた。自分の中にあるものを、必死に外に出そうとしていた。怖さを打ち消すんじゃなくて、怖さを受け入れて、前に進んでいた。静かに、確実に、戦っていた。
この時、私は思ったのだ。
今まで、私は、口に出す勇気がないのだとばかり、思っていた。もっと自分の考えに自信が持てれば、口に出せるのだと思っていた。
だけど、そうじゃない。
誰だって、怖いのだ。というよりむしろ、正面からちゃんと戦っている人の方が、怖さを受け入れて、怖さと向き合っているのだ。
勇気が欲しい。自信が欲しい。という言葉こそ、言い訳だったのだ。
私の不甲斐ないところは、勇気がないところでも、自信がないところでもない。覚悟を決めて、最後まで戦わないところだった。
彼の静かな歌に、私の心が、熱くなる。
明日を元気にしてくれる歌は、明るいリズムの曲ではなくて、深夜に溶け込むような、孤独に、確実に、戦っている、彼のような歌なのかもしれない。
その日から、私の行動はちょっとずつ変わっていった。
受け入れてもらえなかったことを怖がるのではなく、受け入れてもらえなかった後、納得してもらえるまで戦う覚悟を決めた。そうしたら、口に出すのが、少しずつ、怖くなくなった。何より、先を考えるのが、楽しくなった。
こんな方法がある。こんな可能性がある。これよりもっと面白いこと、ないかな。
そんな思考に、変わっていった。
そんな風に過ごしているうちに、私は彼の歌を聴きに行くことが少なくなった。遠回りをしている時間が、もったいない。そう感じていた。もしかしたら、それすら考えられないほど、自分の仕事に夢中だったのかもしれない。深夜11時30分を過ぎるときもあったし、さっさと帰って、朝早くにカフェで勉強することもあった。憂鬱な毎日が嘘みたいに、あっという間に過ぎていた。
「うわあ、できた!」
したいことが見えてきて、やらなければならないこともたくさんあって、前に前にと過ごしていたら、いつの間にか、大きな企画をもらっていた。デパートの企画の、今度は、責任者だ。私が大きなコンセプトを作って、チームをまとめる役目だ。明日は、メンバーに大まかなイメージを共有する日だ。スタートの日だった。ちょっとでもいいものを、後輩が、頑張りたいと思えるものを、何より、たくさんの人が喜んでもらえる企画を立てたかった。私だって、化粧品が好きで、たくさんの人に、自分が考えたもので喜んで欲しくてこの会社に入ったのだ。今回のチャンスは、自分にとって、自分が変わったと証明できる、大きな機会だった。練って、練って、企画書とパワーポイントが出来上がった時には、もう外は明るかった。
朝一で上司に確認を取りに行く。あの時私を叱ってくれた上司は、この日、もう一晩くださいという無理な私の願いを聞いて、早く会社に来てくれていた。
「なんだ、できるじゃないか。ここからが勝負だぞ」
あの時、「つまらない」と言わせてしまった上司の顔が嘘みたいに、私の企画書を見ながら、面白そうな顔をしていた。期待された同期や先輩にしていたその顔と、同じ顔。信じられないけれど、ここでやっと私もスタートに立てたのだ。
「頑張ります」
私は企画書を挟んだファイルを抱えて、会議室に向った。
「なあ、最近、変わったよな。なんかあったの?」
会議が終わったあと、廊下ですれ違った同期が聞いてきた。負けず嫌いで有名な同期だ。数回しか話したことはなかったけれど、細身のパンツに、つけすぎのワックスが異常に目立つから、彼のことを覚えていた。
「いや、何も」
その時は特に思いつかなくて、目の前のことに必死だったから、なんとなく返して、その場を去ってしまった。
「何か、あった……?」
1ヶ月後、私の企画は無事に開催された。信じられないくらい嬉しかった。仕事がこんなに楽しいものだったのだと、初めてわかった。そして、もう次のことが頭に浮かんでくる。働くって、こういうことなのかもしれない。生意気だけれど、ちょっとだけわかったような気がした。
だけどその日は、久しぶりにゆっくりお風呂に入った。お気に入りの入浴剤を入れて、お肌の手入れもちゃんとした。それから、自社の新製品のパックを試してみる。ノートにメモもした。うわあ、私、変わったなあ。前の私だったら、即、寝てしまっていただろうなあ。
いつからこうなれたんだろう。
そう思った瞬間、すれ違った同期の言葉を思い出す。
「なんか、あったの?」
なんか……。
すっかり忘れていた自分に、呆れるくらいだ。
あの日の歌、だ。
彼の歌。深夜に馴染んで、切なくて、だけど、強くて優しい。
彼の声に出会って、彼の言葉を知って、それからだ。それから私は、強くなれて、明日が楽しくなったのだ。
どうして私は、忘れてしまっていたんだろう。
そう思いつつも、そうなるくらい頑張ることを教えてくれた、彼へのありがとうの気持ちが先行する。
私は、あの歌のおかげで変われたんだ。強くなれたんだ。一人でちゃんと生きていける。今、初めてそう思えている。
ああ、伝えたいな。
もしかしたら、彼の声は、ずっと心のどこかにあったのかもしれない。
大丈夫だと、心の中で、メロディーが流れていたのかもしれない。
ありがとう、を、言いたい。
気持ちと一緒に、ふっ、と、涙が溢れてくる。
私はこんなに嬉しくて、こんなにあなたに伝えたくて、仕方がない。
初めてあなたの声を知った時だって、こんなにも深夜に合う声があるなんて知らなかった。こんなにも切なくて静かな歌が、こんなに私を強くしてくれるなんて、知らなかった。私がこんな自分になれるなんて、知らなかった。
この気持ちを伝えられたらいいのに。
だけど、相手は、私を知らない。
私は一人の通行人で、いいところで一人のファンだ。
そもそも、この気持ちに名前がつけられない。
恋かといえば、私は彼の歌しか知らない。
ファンだといえば、それは寂しい。
だけど、彼に伝えることは、間違っている気がする。
でも、この気持ちをなかったことには、したくない。
心の底から思ったありがとうは、言葉にしなかったら、この世界にはなかったことになってしまうんだろうか。
気持ちが、心に収まりきらない。コップの淵から溢れるみたいに。
どうしよう。
そう思った時、彼の歌が、耳の奥から蘇る。
毎日聴いたあの声を、私の耳はちゃんと覚えていた。
彼の歌が、聴きたい。
そう思うと、体が勝手に動いていた。時計は深夜11時15分。私の家からなら、まだ間に合う。それに、今日は彼が、歌う曜日だ。
聴きたい。
彼の声が聞きたい。
私の鼓膜を、あの優しい声で、撫でて欲しい。
私の足は、速度を増して、アスファルトを蹴っていく。
伝えられないありがとうは、私がもらったものを無駄にしないで、頑張ることで、この世界の存在させる。
それから、私の立場で、心の中で、聞くことのできない彼の夢が叶うことを、願うことだ。
私が今できることは、通行人として、彼の歌を聴くことだ。
騒がしい交差点から、月に照らされたススキみたいな声が、聴こえてきた。
*このお話はフィクションです。
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