失恋の美味しい食べ終わり方

失恋の美味しい食べ終わり方

「振られちゃった……」
口の中でもごもごと、振られちゃったを繰り返している。もう2週間も経つというのに、仕事から帰ると、ただぼんやりと、意味のない言葉を、口の中で弄んでいた。

「別れようか」
2週間前だった。私は、そんな言葉が私たち二人に存在しているなんて、考えたこともなかった。でも、君は、気まずそうに、でも、考えた上での決断だという表情で、私に投げかけた。頭が真っ白になるというのは、まさにこのことで、私は、君の言葉をすぐに理解できないでいた。理解できないままでいたかったのかもしれない。

私たちは、これからの話をするのが、好きだった。
明日食べるものを決めること。来週着ていく服を選ぶこと。来月にはできるようになりたい仕事のこと。将来なりたい自分の姿。

つい先週まで一緒に見ていた明日は、一体どこへ行ってしまったんだろう。

そう思っても、もう問いかける相手はいなかった。
答えて欲しい君は、もう私の隣には、いないのだ。
私の目の前にあるのは、振られた事実と、君への好きが微妙に混じった、とりとめのない時間だけ。

早くなんとかしなきゃ。
そう思うのに、悲しい気持ちから、立ち直れない。
もしかしたら、この気持ちが、心地よかったのかもしれない。

すでに思い出になった私と君との時間は、すべて私の手の中になった。どんな風に考えようが、どんな意味をつけようが、私の自由になった。悲しいことに、もう、思い通りなのだ。

ちょうどよく時間が経ち、いいことばかりを思い出し、
そして、ますます、忘れられなくなる。

今日一緒にいることが愛おしくて、明日の話をするのが好きだったのに。
明日に近づいていくように努力する君が、とても好きだったのに。

なのに、私の時間は、君と別れた日から、止まってしまったみたいだ。

そんな自分が情けなくて、でも、明日を一緒に見すぎていた分、君と想像した分の今日を、どう過ごしていいのか、わからない。

そしてまた、君の言葉を思い出す。
「自分のことで精一杯で、君のこと、傷つけたくないんだ」
さようならと一緒に君はそう言った。その言葉が本当でも、優しい嘘でも、どうでもよかった。傷つけてしまうけど、それでも一緒にいたいと、言って欲しかった。傷つけても一緒にいる覚悟をして欲しかった。そんな叶わない想いを、心の中で撫で回す。

私は、もっと、潔のよい性格のはずだったのに。
自分の目で明日を見て、自分の心で今を選んで、自分の足で、明日に進んでいける、そんな自分なはずだった。
「頑張っている君が好きだ」
そう君に言ってもらえた、あの日の私は、君のさようならと一緒に、消えてしまったんだろうか。私の心はまだまだ未熟なのだと、気がつくしかなかった。

腑抜けた頭で仕事に行き、ご飯もろくに食べないで、代わりに涙で気持ちをいっぱいにして寝る。そんな時間と、君との思い出を眺めながら、君のいない日々から目を背ける時間を繰り返す。情けない毎日を繰り返していた。

けれど、目の前に何もなく、どんなに悩んでも変えられない毎日を過ごす自分から、目を背け続けることも難しい。
ぼんやりとした毎日を送り、こだわりのないご飯を食べて、体も心も栄養失調になりそうだ。

いい加減、何とかしないとなあ。
そんな事態に辟易して、本心のような、中身のないような自分の気持ちが、風船のように漂い始める。

そんな時だった。
だらだらしていた、土曜の夕方、携帯が鳴った。
「もしかしたら……」
そんな気持ちが、此の期に及んで浮かばない、訳でもなかったけれど、
そんな暇もなく、実家からの着信を確認する。
電話に出ると、母親の声がした。
「ねえ、おばあちゃんのとこ、今年も柿が採れたっていうんだけどね」
おばあちゃんの家には、柿の木があるのは知っているけど、こんな時に、柿の話か。内心はそう思いながら、母の話を耳に流す。
「おばあちゃんが、あんたに食べさせたいんだって。今年は私も行けないし」
あっ、そういえば。小さい頃のことを思い出す。毎年田舎のおばあちゃんの家には行くくせに、柿がなる時期に遊びに行ったのは、小さい頃が最後だった。
「明日、行ってくるよ」
思いがけず、明るい返事がでた。母の不安そうな声を遮って、電話を切る。

おばあちゃん、覚えててくれたんだ。
おばあちゃんが大事にしている柿の木を思い出して、少し明日が楽しみになる。
おばあちゃんの家は、本当に遠くの田舎だから、明日は久しぶりの早起きだ。
鞄の荷物を整えて、新幹線を確認して、お土産を買うお店を思い浮かべる。楽しい気持ちのまま、今日の夜は、ベッドに潜る。明日の天気は、晴れみたいだ。

「よくきたねえ」
私の失恋も、最近の腑抜け具合も、なんにも知らないおばあちゃんは、私がきたことをただただ喜んでくれた。好きな人と、こんな関係になれるには、どうしたらいいんだろう。おばあちゃんに会って、こんなことを思うなんて。そんな自分が笑えてくるけど、おばあちゃんを見ていると、本当に久しぶりに顔の筋肉が柔らかくなる。
「今年の柿は、美味しくできたよ」
ぼんやり考えている私に気がつかないふりをして、おばあちゃんが柿をむいてきてくれた。庭の木にも、鈴なりだ。オレンジ色が賑やかなのに、田舎に馴染んで心地いい。

「あたしの柿、剥いちゃだめ!」
一番の食べ頃の、熟れた実を頬張っていると、台所の方で声がした。従姉妹が習い事から帰ってきたらしい。
「どうしたの?」
「あっ! お姉ちゃん!」
まだ小学校3年生のかわいい従姉妹は、私に気がついて走ってきた。さっきの金切り声とはうって変わって、楽しげな声だ。くるくると面白そうな方へ走っていける、この小学生が何だか羨ましい気持ちになる。
「あのね、」
年の離れた従姉妹はまた一丁前に険しい顔をして、話し始める。
「私が採った柿、お母さんが剥こうとするの」
どうやら自分で採ったものが嬉しくて、食べてしまうのがもったいないらしい。
「そっか、そっか」
でも、自分で採って自分で食べるのが楽しいと思うんだけどなあ。そう思いながらも、私まで厳しくしなくてもいいかと逃げて、
「じゃあ、私の一緒に食べようか」
誘ってみると、従姉妹は嬉しそうに手を伸ばす。

従姉妹と美味しい柿を食べ、おばあちゃんと話をして、田舎の空気をいっぱい吸った。
「たくさん持っておかえり」
結局実家には郵便で送ってもらうことになり、私の分を数個、紙袋に入れてもらった。

なんだか懐かしい気持ちになって、帰り道なのに、紙袋の中の柿に、わくわくする。
中を覗くと、つやつやのオレンジでいっぱいだ。

袋を持つ手と反対の手で、柿をひとつ取り出してみる。片手で撫でて、眺めて見た。
食べるのがもったいないなんて、かわいいな。
従姉妹のことを思い出しなが、ふっと、記憶が蘇る。
「でも、今が一番美味しいんだよ。どんどん苦くなって食べられなくなっちゃったら、せっかく採ったのに、もったいないでしょ」
私もおんなじことが、あったんだっけ。

初めてもらった柿。手の中のつやつやなオレンジが嬉しくて、
「ほうら、熟れた。今が一番美味しい時だよ」
おばあちゃんがそう言ってくれたのに、私はつやつやオレンジがもったいなくって、柿を食べずに眺めていたんだ。

でも、次の日から、柿はみるみる柔らかくなって、崩れそうな気配だった。
慌てて口に入れてみたら、口の中がピリピリするみたいに苦かった。
楽しみにしていた柿の変わりように、泣いていた。
「あらあら、もう食べられないねえ」
おばあちゃんが、残念そうに言った。
せっかくもらった柿。あの時食べていたら、この柿は、私のお腹にちゃんと入っていたのに、私が眺めていたいというわがままのせいで、せっかくの美味しい食べ物が、ピリピリした腐ったかたまりになってしまった。すごく誇らしいものを、台無しにしてしまった。私はそれが悲しくて、また泣いた。

この時からだった。私は好きなものを一番最初に食べるようになった。なまのお菓子はその日のうちに。果物は、ちょうど熟れた、食べごろに。

そうしてきたつもりだったのに、もう、泣いたりしないように、そうしてきたつもりだったのに、私は、もう食べてしまわなくちゃいけないものを、眺めて、手放せないままでいる。

好きで、好きで、とても壊したくなかった。いつまでも眺めていたかった。そうやって、言い訳をして、失った現実から、目を背けていた。
甘い思い出は、君の優しい声は、思い出せばいつも、辛い現実を遠ざけてくれる。
でも、その度に、思い出なんだと気がつくたびに、もう君は隣にいないという現実に気がつかなくちゃいけない。

その切なさが、大きくなりすぎてきた。
きっともう、限界だ。
今が、きっと、思い出が一番熟れた頃だ。一番綺麗な、食べ頃だ。

手の中で転がしていたら、いつの間にか腐ってしまう。口の中でいつまでも噛んでいたら、きっといつか、苦くなる。思い出の中に詰まった、私たちの過ごしてきた時間が確かにあるなら、弄んでいないで、早く飲み込んであげなくちゃ。腐らせてしまう前に、誰かに踏みつけれらてしまう前に。自分の意思で粉々に噛み砕いて、君のくれたものを全部咀嚼して、飲み込んで、綺麗さっぱり消化する。もうそこには、「君」という形は残っていない。「君」という思い出に、君のいない現実を悲しむこともなくなって。
でも、
君と出会えたこと。君と過ごしたこと。
好きだっていう、君と私の口からこぼれた言葉が、どんなに幸せな音をしていたか。
君に会える約束一つで、会えない時間、君と出会う前の何倍も頑張れたこと。
前を歩いてくれる君がカッコよくて、追いつきたくて、早く君の隣になりたくて、私も一生懸命になれたこと。
君と眠る夜、朝来るのが恨めしくって、夜がとても愛おしかったこと。
一緒に飲めば、甘ったるい缶チューハイだって、特別になる。
君と語る夢は、本当にしたいと、覚悟ができた。
それから、大切だってことは、失った時に気がつくなんて、嘘だってこと。
大切な気持ちは、渡しきれない。だから、一緒にいる時間が愛おしかったんだって。

噛み砕いて、飲み込めば、全部私の栄養になる。私のがんばるエネルギーになる。
思い出の君になんて、負けてたまるか。
私は、現実の中の君が好きだったんだ。確かに私と出会ってくれた、君が好きだったんだ。
私は、現実のものが、好きだ。今の時間を、旬を、味わって生きるのが好きなんだ。
だから、夢の中の君とは、もう、さようならだ。

泣いてもいいから、今だけ、全部思い出そう。
出会えたことも、一緒に過ごせたことも、そしてもう会えないことも、全部素直に受け止めよう。そうして、ちゃんと、下手くそでもいいから、「君との時間」を飲み込めたら、それはいい恋だったんだ。
飲み込んだ後、頑張れたら、その時間の中身はぎゅうぎゅう詰めだ。
美味しくいただいて、ごちそうさまだ。
お腹がいっぱいになったら、いつまでもぐずぐずしてたら太ってしまう。
そろそろ、出かけてみよう。新しい場所へ、行ってみよう。
そして、いつか、
私の心がちゃんと熟したら、
旬も、賞味期限も存在しない、恋から愛への変え方を知ることができると、思うから。


*このお話はフィクションです。


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