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夢が途切れた時に見えるのは、本当になりたかった私、なのかもしれない

「この学校には、吹奏楽部、ないんだよ」
なんのためらいもなく、新しい学校の先生は言った。転校先に挨拶に行った時だった。どうしても叶えたかったことを諦めてきたのだから、入りたい部活くらいは、当たり前にあると思っていた。ないことを、こんなにもあっさりと、伝えられると、思っていなかった。

そんなことより、何より、自分にはどうしようもない理由で、あっけなく目標を失ったことが、悔しくて、悔しくて、机の下で、拳を握る。手の平に、爪が刺さって、痛かった。

どんなに別の痛みでごまかしても、心の痛みは消えない。転校をして3ヶ月経っても、私の気持ちは沈んだままだ。
どうして、転校なんて、することになったんだろう。
どうして、お父さんとお母さんは、私の夢を、奪ったんだろう。
そんなことばかり、考えていた。奪われたものを思い出したくなくて、楽器のケースは閉じたまま。目標の高校、憧れの吹奏楽部。入学のお祝いに買ってもらった新しいクラリネット。
私はこのクラリネットを、東京のホールで、大好きな仲間と一緒に吹いているはずだった。ずっと目指していた吹奏楽部で、ソロを吹くはずだった。

自分ではどうしようもないことが、この世にあるんだと、初めて知ったような気がした。

「私もここで吹奏楽をしたい」
そう思ったのは、初めて高校生の吹奏楽を聞いた時だった。小さい頃からクラリネットを習っていた。私はなぜか、この楽器が、大好きだった。絵本で見たウサギが、吹いていた楽器。なんとなく可愛くて、両親にねだって、習い始めた。

私のクラリネットは、特別上手なわけではなかったけれど、私の生活の全てになっていった。私の一部、と言った方が、しっくりくるかもしれない。
朝起きて、クラリネットを吹いて、学校から帰って、クラリネットを吹く。
憧れの曲の譜面が、だんだん音楽になっていくのが嬉しくて、ただ、夢中で吹いていた。不思議なことに、誰かと吹きたい、と思う隙もなく、ただひたすらに練習していた。

中学生になって、コンクールを知って、人の前で演奏をし始めるようになった頃だった。
「ねえ、ハナ、今日は練習休んで、ちょっと付き合って」
お母さんが、誘った。
都内にある高校の吹奏楽部の定期演奏会だった。コンクールで何度も金賞をとっている、有名な高校だ。
音楽が好きなくせに、一度も聞いたことがなかった。初めて、吹奏楽の演奏を聴いた。

私の世界が、広がった。

この瞬間しか出せない、音が鳴っていた。初めて聴いたくせに、わかったのだ。
清々しかった。
音楽に厚みがあるのに、清々しかった。
こんな演奏が、できるんだ、そう思った。
こんな演奏をしてみたいと、思った。

こんなに清々しい音楽を、私も奏でてみたい。

笑っているように演奏をする未来の先輩たちの中に、溶け込む自分を想像する。
私は、ここにいる。
想像が、できた。

私は、ここで演奏をしたい。

ただ、その高校は勉強の偏差値もかなり高い。勉強と音楽を演奏することを結びつけていなかった私には、焦る必要があった。

だから、必死に、勉強した。練習はもちろん、今まで以上に頑張った。
クラリネットも、上手くなるように、そして、あの高校に入れるように。

「応援してるから」
気持ちを話すと、母も、父も、嬉しそうに笑ってくれた。本心で、応援をしてくれた。

あの演奏を聴いた日から、クラリネットも、勉強も、全力だった。今まで平気で「一生懸命」の言葉使っていたことを後悔するくらいに、頑張った。
私もあの場所に立ちたい。あんな素敵な顔で、音楽を吹いたみたい。
ただ、その思いだけだった。

演奏をすることと、高校に入ること。自分の目標が入れ違っていたみたいだったけれど、そんなことは気にも留めていなかった。けれど結果的に、私のクラリネットは格段に上達していた。そして、入学をした時にはもう、この高校の吹奏楽部に入るのは、自然なことのようになっていた。自然なことになるまでに、自分を成長させられたのかもしれない。

そして、憧れの吹奏楽部での練習の始まり。すぐにあんな演奏ができるわけもなく、そして、多感な生徒たちが、周りと比べずに吹くことも難しい。同い年なのに、一つ、二つ、歳が上なだけなのに、部員たちが、自分よりずっと、個性的で、美しくて、心を震わすような演奏をする人たちが、たくさんいた。当たり前だ。あんなに憧れて、入った吹奏楽部なのだから。大好きな場所だからこそ、この人たちの中で、劣っていると思われたくなくて、負けたくなくて、私も音の一つになりたくて、私の全力は、続いた。

でも、そんな中、また目標ができていた。
定期演奏会で、ソロを吹くことだ。

「吹きたくて、しょうがないんだ」
手が、吹く形に歪んでいる。先輩がいたずらっぽく笑って言った。もう、病気だね。楽しいばかりではないことは、先輩の姿を見ればわかるけれど、もっとその先の、最高の一瞬を奏でたいという音楽への執着が、眩しくて仕方なかった。
しばらく休んだ方がいいよと、整形外科で言われたくせに、先輩の吹き切ったソロはかっこよかった。一生吹き続けたい人の行いとしては、これからもっと大きな舞台でも吹けるだろう人の行いとしては、褒められたものではないけれど、でも、とてもかっこよくて、最高だった。一生に一度だという思いで、高校の吹奏楽をしている人と一緒に、演奏ができていることが、嬉しかった。そして、私も、吹きたい。私だって、吹きたい。吹きたい。

そして、高校2年生の定期演奏会。私たちの学年がメインの、そして、定期演奏会ができるのは最後だった。課題曲が発表される日。同時にソロ担当も講師から発表されることになっている。

選ばれるかもしれない期待と、呼ばれない恐怖。どちらの気持ちかわからないほど、私の心臓は音をたてて、速度を上げている。
早く、呼んで。私を、呼んで。練習してきた痛む手を、お守りみたいに、握りしめる。
みんな上手だ。みんな大好きだ。でも、私を呼んでほしい。
吹きたくて、しょうがないんだ。

「--3曲目のソロは、クラリネットの……」
私、だ。固く握った指が解ける。自然と、クラリネットを持つ形になる。私が、吹くんだ。爽やかな風が吹くように、あの日の記憶が蘇る。初めて聴いた、この高校の演奏。清々しい音楽。私は、あのステージに、あの時憧れた私で立つ。吹きたくてしょうがない音楽で、いっぱいにするんだ。

「応援してるから」
お父さんとお母さんが言ってくれたのを思い出した。あの時、頑張ろうと心に決めることができて、受験もクラリネットも、ここまで頑張れたんだ。

今日だけは、早く帰って、話したい。私がソロに選ばれたこと。目標が、叶うこと。応援してくれて、ありがとうの気持ち。

「ただいま!」
いつもより元気よく、ドアを開ける。
「私、ソロに……」
母が悲しそうな顔をしている。
「あのね、お父さん、転勤になったんだ」
ごめんね。と、お母さんはぽつりと言った。言ってくれたけれど、どうにかしてくれるわけじゃなかった。
「ハナには申し訳ないけど、仕方ないことだから」
仕事から帰ってきたお父さんが言う。その表情が、仕事の疲れなのか、残念な気持ちなのか、心の乱れた私には、わからない。仕方ない。そんな言葉で、片付けるんだ。自分の気持ちが、先行する。私だって、もう高校生だ。わかってるよ。わかってるけど、自分でいろんなことをどうにかできるほど、大人でもない。

引っ越すのは、定期演奏会の2週間前。本番には、他の高校の生徒だ。諦めるしかない。仕方ないのだ。
言いたいことを押し込めるように、部屋にあるお気に入りたちを、荷造りをする。

そして、お父さんの転勤先の田舎へ行った。楽器屋さんも、譜面を変える大型書店も、オーケストラを聴けるホールもない。何より、吹奏楽部すら、ないなんて。

音楽が頭をかすめると、私の心は、苦しかった。
どうしようもない気持ちから逃げるように、ただ学校へ行き、家に帰って、何も考えず、何にも考えずに、だらだらする日々を送っていた。そうするしかないと、思っていた。音楽を遠ざける日々だけが、積み重なっていく。

「引っ越しの段ボール、いい加減に片付けてよ」
開けたら未練が吹き出しそうで、東京での思い出の入ったものは、そのままにしてあった。でも、もう3ヶ月も経ってしまったのだから、さすがに片付けなくてはどうしようもない。母に言われて渋々片付けを始める。
蓋をあけると、3ヶ月前までの時間が溢れてくる。入学のときからずっとつけていた毎日の振り返りノート。お揃いのミサンガ。お別れにもらった色紙には、「向こうに行っても、吹奏楽がんばってね!」「いつかまた一緒に演奏しようね!」素直に喜ぶべき仲間の言葉が並んでいた。「ハナのクラリネット、好き!」段ボールから取り出すたびに、気持ちが溢れてくる。みんなの言葉を目で追えば、心の中に押し殺しているもやもやが、渦巻いてきて、苦しい。
私のクラリネットは、みんなと出会えたからなんだ。みんながいたからなんだ。みんなの情熱と奏でる音が一緒にいてくれたから、私も頑張れたんだ。
どうして失ってしまったんだろう。どうしてなんとかできなかったんだろう。どうして私は、私はそこに、いないんだろう。
自分で選んだその日々が楽しかったと思えば思うほど、今ある時間が虚しくて仕方ない。
思い出から目を背けるように、気持ちを落ち着かせるように、一つ一つ、片付けていく。
早く、片付け。

そう思っていたときだった。

「あれ、この葉書……」
どうしてこんなところに入っているんだろう。小学生のとき、ちえちゃんからもらった葉書だった。幼馴染みのちえちゃん。お誕生日に、手渡しで。すごく嬉しかったのを覚えている。父親が転勤族で、小学生の時の数年しか一緒に過ごせなかったけれど、大事なお友達だ。ちえちゃんは絵が好きだった。

会えないのは寂しいけれど、離れてしまってからも、時々手紙を送ってくれた。葉書の表には必ず素敵な絵が書いてあった。3年に一回くらいの引っ越しの中で、全部が楽しい場所だった訳ではなかったらしい。素直なちえちゃんは、今はちょっと辛いんだ。そういう言葉が書いてあった時もあったけれど、それでも、どんな時でも、ちえちゃんの絵は、特別にきらきらしていた。どこに行っても、どんな場所にいても、ちえちゃんは、ちえちゃんだった。
私はちえちゃんが大好きだ。ずっと大好きだった。

特に覚えている絵葉書がある。田舎に引っ越した時だった。
ちえちゃんの絵が、生きていた。鼓動を打っているみたいだった。
画材屋さんも近くにない地域に引っ越すことを、ちえちゃんは初め不安がっていたけれど、その時から、もともと上手だったちえちゃんの絵が、急に煌き出した気がする。
不安だったから、前よりも頑張ったんだ。
ちえちゃんはそう言っていたけれど、なんだかとても楽しそうだった。いいものを見つけて、それを内緒にするみたいに、はにかんでいた。

想像だった世界が、ちょっとずつ、自分のものになってきたんだ。

田園の上を駆ける、風の香り。澄んだ空気を突き抜けて届く、星の光。土を踏みしめて、見上げれば、空と若葉と日差しの色が、混ざり合う。
今まで絵の中で、写真の中で、説明の中で、頭で感じていたものが、自分の感覚になっていく。
私、この場所に住めて、よかったな、って思うんだ。

ちえちゃんは、そう言っていた。なんの迷いもなく、自分で選んだことのように、笑っていた。

あの時の私はまだ、ちえちゃんの言葉の意味がわからなかったけれど、
今の私は、そのちえちゃんの言葉にしたことを、そのまま感じてみたい。

今、ちえちゃんの絵を見つけられてよかった。小さい頃の気持ちを思い出してよかった。
私は、ちえちゃんの、そういうところが好きだったのだ。どこに行っても、ちえちゃんでいられるところ。可能性を打ち消したりせず、あるものを大事にして頑張れるところ。求めるのではなく、環境を自分で作るところ。そういうちえちゃんの、まっすぐなところが好きだったのだ。その全部が、色に、筆使いに、絵から溢れ出す雰囲気に、現れていたのだ。

風の感触。光の力。今まで知らなかった色を見つけてみたい。
音楽の、知識で理解していた部分を、体で理解ができるかもしれない。今まで出せなかった音に、出会えるかもしれない。

そして、
そうすれば、きっと、強くなれる。どこにいても、私。いつ、どこで吹いても、私の音。そんな風に、自分を信じられる自分に、なれるかもしれない。
ううん。そんな自分になるんだ。

どうして私は、何もかも、自分以外のせいにして、全部失ったなんて、嘆いていたんだろう。確かに、東京での日々も、あの高校の吹奏楽部で演奏をすることも、自分で決めた、大切なもの。でも、私のクラリネットは、そこで終わりじゃない。そして、出会ったものも、あの時で終わりじゃない。私が、頑張り続ければ、何もかも、続いていく。今までの思い出、これから出会うもの、全部吸い込んで、鳴らす、私の音は、きっと特別になれる。

クラリネットを手にとって、玄関を出る。丘の上の家。夕日が集まって、ほおが少しあったかい。目線の先には、稲穂をくすぐる、豊かな風が遊んでいる。
今の気持ちをめいっぱい、クラリネットに注ぎ込む。いつもより、優しくて、明るい音が聞こえた気がした。


*このお話は、フィクションです。

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