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甘酸っぱい香り

 秋だ。キンモクセイだ。どこもかしこも、外も中もキンモクセイだ。一時期キンモクセイを家の植木にする流行りがあったんだろう。実家の団地では五軒に一軒は橙色のあの花が植えられていて、それは強い香りを醸し出している。
 わたしはこの香りがそう得意ではない。嫌いではないけれど、ちょっと、にがて。
 でもキンモクセイの香りがそこら中でしていて思い出した。この間、すごい香りを嗅いだのだ。なんだっけ、あの記憶にダーツの針が刺さったような感覚、いつ。そう、あれだ。仕事でとある施設に行ったときのこと。 
 その場にいない後輩起因のアクシデントが発生し、直属の先輩としてなんとかせねばと奔走していた。 
 けっこういろんな方面に迷惑をかけかねない事態でパタパタと施設内を小走りに走り回る気持ちだった。でも体力もなかったし、床に等間隔で「お静かに!」って日本語と英語で書かれていたから走らないでおいた。正直、体力問題。
 気持ちはたどり着いているのに本体は遠くにいるギャップを埋めるべく、必死に早歩きをした。とある階段を曲がりきったとき、その匂いがした。

 甘酸っぱい!

 もう甘酸っぱいとしかいいようがない、とても良い香りがあたりに広がっていた。レモンみたいな、でももっと甘い。とても好きな香り。
 甘酸っぱいの直後、脳みそに?が浮かぶ。この香りは嗅いだことがある。なんだっけ、をたくさん繰り返し足を止めてしまう。深く深呼吸をして甘酸っぱいを吸いきってまた早歩きを始めた。
 知っている香りだった。脳みそのポケット全部ひっくり返して答えを探す。なんどか往復、早歩きをする白い廊下に答えが浮かんだ。
 小さなおもちゃの香水だった。実家の紺色のプラスチックの箪笥があった頃、その小さな引き出しにたくさん宝物を詰め仕込んでいた。誰に盗まれると思ったのか、いろんな仕掛けを施してセキュリティは万全だった。
 そんな宝箱のなかに、ぷしゅぷしゅと小さな玉を押して空気を吐き出す香水がいた。女優みたいにプシュプシュ。お花の形の瓶にピンク色のラベル。なかには黄色いビーズのようなものが入っていた。きっとそれが香りの正体だと幼心に気付いていて、とても大切にうっとりとプシュプシュして、香りの玉が小さくならないよう心がけていた。
 その香り、瓜二つ。
 そんな宝物があったことさえ忘れていた。
 香りは一番記憶に残ると言うけれども、ここまでずるんっと大根でも抜くように絵が浮かび上がるとは思わなかった。
 何度か鼻呼吸。
 名残惜しくもとりあえずその場は去って、アクシデントを片付けた。でもそのあと本番まで時間があったので階段近くにまた戻ってきた。
 香りの根源を探す。トイレだった。
 トイレにとても立派な機械のような物がおいてあり、それはうちのマンションのエントランスにもあるものだった。おそらくそれが良い香りを醸すのだ。うちのエントランスも香水のような花の香りがして、しかも定期的に香りが変わる。いろんな友達がマンションに来るが、みな良い香りと笑う。
 いつか仕事からマンションに帰ってきて、鞭で打たれたように記憶を刺激して、この香りにまた浸ることがあるのだろうか。マンションの管理人の気まぐれが私の幼少期と噛み合うのか。

 トイレから出てきて、また階段で深呼吸をひとつ。 
 仕事は無事うまくいき、後輩は平謝りだった。わたしも間違えそうなミスだったから、「あれは罠」と言っておいた。

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