帰るんだ
北極圏を出る。1ヶ月前に来た道を、今度は出発した街までまた自転車で引き返す。1日分の食糧を残して目指すのは400km先。途中で食糧を補給できる場所はない。小川が何ヶ所かあったので、水は確保できる。
これは、おれが当時、若さゆえにどんなに愚かであったのかを綴ることで、同じ思いをしないよう今後の教訓として記すもの、自分への戒め、つまり反省文である。
それにしても来た道を帰るのは楽しくない。もうどんな道を通るのかを知っている。特にこの道はずっとアップダウンの連続で、つい1ヶ月前の行き道もしんどい思いをしたのが朧げに思い出される。行き道と帰り道でおれは何か変われたのか。いや、そんなことはどうでもいいくらいに腹が減った。
行きは確か5日半かかったが、頑張れば4日で走り切れる距離である。もう1週間くらいまともに食っていないので、体力的には頑張れない状態なのだが、さもなくば路上で野垂れ死ぬだけなので、やるしかない状態に追いやられていた。
まるで大学の学期末。時間は十分あったはずなのに、期限ギリギリで期末レポートを書き始めるようなものだ。そして提出時間ギリギリに合わせて学校まで死に物狂いで走る。追い詰められないとやらないという、おれの怠惰な性格は、生死に関わる場合も怠惰なままであるようた。やばいやばいと頭では焦りながらも、ギリギリでクリアするスリリングな快感を覚えてしまっている。
産声をあげてから20年以上、長い時間をかけて形成された性格は、なかなか変えられないものなのだろう。性格を変えようと努力したら、もう20年かければ180度変わるのか。いやそもそもそんな努力をできる性格ではなくなってしまっているのだから、残念ながら、おそらく未来永劫この性格のままである。
とはいえ、あと4日だ。あと4日踏ん張れば街に着く。あと少しで普通の生活に戻れると悟った脳が、一度消したはずの食べることへの悦びという感情を思い出したようで、湯気をたてながらテカテカと光る中華の大皿料理が頭から離れなかった。そしてこの時は、その食への執着が、力の入らない脚をなんとか動かす原動力となっているようであった。
腹減った、眠い、疲れた、もうダメだ!と弱音を吐き続けながら、どうにか休みたいと脳で思っているのとは裏腹に、体は勝手に動き続ける。体が勝手に生きようとしている。
1日目でなんとか100km、2日目でも100kmを漕いだ。テントを張るのも、寝袋を広げるのも、調理用のガソリンストーブをセットするのも、力が入らずいちいち時間がかかった。どこにもあてつけようのない苛立ちを感じる。強いて言うなら自分への苛立ちであるが、今まであまり湧かなかった感情が湧いたことで、少し自分に余裕がなくなっているのがわかった。
誘惑に耐えきれず、1日目で最後の1日分の米を全て炊いてしまった。炊けた1.5合ほどの米を見たら少し安心できた。1日目はなんとか食べる量を半分に抑え、2日目に残した。そして2日目でもう半分をたいらげ、1ヶ月前に用意した全ての食糧を食べ終えた。
残すは200km。何も食べずにたどり着かねばならない。そう思うと少し不安であったが、まだまだ冷静さは保っていた。
3日目途中から、登り坂でペダルを漕いで登る力が出なくなった。自転車を降りて、俯きながら酔っ払いのようにふらふらと自転車を押し進めた。前を見てしまうと長すぎる登りに心が折れそうになってしまう。下り坂になるまで、足元を見ながらひたすら前へ進む。いきなりこの足が動かなくなってしまわないか、怖かった。
時々、もう何に向かって進んでいるのかわからなくなった。方角的には街に向かっているのだが、もはや自分が遠くに見ているのは街ではない。おそらく「生」に向かって進み続けているのだ。無意識がそうさせている。極論、足を止めたら「死」だ。そこで終わり。それの何がいけないのか。なぜ足を止めさせない。なぜそこまで「生」にしがみつく。朦朧としていた。
おそらくこの時の自分を側から見たら、さぞみすぼらしかったであろう。イメージ的には、ボロボロの格好で、ぼさぼさの髪を振り乱し、鼻水と涎を垂らし、なぜか自転車を引いて歩いているアジア人の青年。しかし、外見なんて気にしてられなかった。生命の維持と引き換えに、理性とか人間としての尊厳が失われつつあったようである。
3日目の夜は、寒さと空腹のせいで夜中何度も目を覚ました。この日は苛立ちよりも、明日はどうなってしまうんだろうと、心細さが次第に染み出てきた。惨めだった。自分を責めた。
しかし、4日目、今まで走ってきたダートが舗装道路に変わった。街まではまだ100km以上あるが、それでも、わかりやすく街が近づいているという証拠に、僅かながら体は活力を取り戻した。それまで一歩一歩が小さすぎて、このペースでどれだけの時間をかければ着くのだろう、と果てしなく感じていていた距離が、一気に縮まった気がした。
どんなに小さな一歩でも、進み続ければ景色は変わる。足元ばかり見ていた顔を上げ、振り返ると、黄葉した木々に覆われたアラスカの大地が地平線まで広がっていた。飲み込まれてしまいそうなほど壮大な地球の歴史、生命の集合体に見守られている気がした。
帰るんだ帰るんだ帰るんだ。
自己暗示をかけるように、ずっと自分にそう言い聞かせた。体も自転車も、もうボロボロであったが、極限まで擦り減った精神を奥底から燃やし続け、なんとかその灯火の熱で体を動かしていた。
そして5日目の夕方、遠くに街の明かりが見えた。帰ってきたのだ。
最初に見つけたバーガーショップに入り、周りの目も気にせず、涙も鼻水も涎も垂らしながら食べたアメリカサイズのでかいハンバーガーが、死ぬほど美味かった。死ななくて良かったと思ったが、腹と心がが満たされた瞬間に、みすぼらしい自分を見る周りからの奇異の目に気付き、あぁ人間社会に戻ってきたんだなと、少し寂しくなった。