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侵蝕 ーとあるマンションの怪異ー 失踪 【白石】

 この電話も多分亜都里だろうと白石は思った。いつでも電話で相談してくれと言ったからか、しょっちゅう電話がかかってくる。さすがに接客中にかかってきたときは参ったけれど、あのマンションの危うさを知っているだけにむげに出来ない。

 今は急ぎでない事務処理をしているから亜都里の相談を受けられる。また夜中に声がするという訴えだろうと思いながら、スマートフォンの画面を見ると知らない番号からだった。

「はい、ラッキールーム白石です」

 少し慌てて焦っているような女性の声が『あの、わたし、リバーサイド■■南の五〇三号室をお借りしている岩井の母ですが』と告げた。

「岩井様のお母様、どうされましたか?」

 五〇三号室に入居している岩井の母親が、何故自分に電話をしているのか、それを考えて白石はゴクリとつばを飲んだ。なんだか嫌な予感がする。あのマンションの住人で何事もなく暮らせているのは、今のところ各階の一号室と二号室だけだからだ。

『何度も電話をするんですけど誰も出なくて……会社の方から連絡いただいて、出勤してないらしくて。娘の様子を見に行きたいんですけど、鍵を持っていなくて……』

「岩井様のご様子を確かめたいと、そういうことでしょうか?」

『そうです、そうです』

 出来ますかと不安そうに訊ねられて、ご家族でしたらと立ち会い可能な時間を確認した。

「それでは、本日の十四時にリバーサイド■■南の正面玄関でお待ちしております」

 電話を切って時刻を確かめる。午前十時。とりあえず、十四時までに終わらせられる用事に取りかかることにした。


 十四時より三十分早く、『リバーサイド■■南』に到着した白石は、まず五〇三号室のポストを見た。

 危惧していたとおり、チラシやダイレクトメールがポストの受口から溢れている。この様子を見ると一日どころか少なくとも一週間以上、岩井は郵便物を確認していないことになる。

 過去に何度も経験した苦い思いが蘇る。

 失踪——。ある日、住人が忽然と消えてしまう。半年保った岩井は長いほうだが、だいたい三ヶ月、早くて一ヶ月でいなくなるのだ。

 岩井の母親のように様子を見に来る家族や、出勤してこない社員の様子を確かめに来る同僚から連絡を受けて、立ち会いの下、部屋に入って初めて何が起こったか知る羽目になる。たまに一ヶ月以上家賃の振り込みがない為、直接白石が催促に行って失踪していると判ることもある。

 最悪、マンション前の道路上で遺体になって発見される。

 単なる無断欠勤で、本人は部屋に引きこもっているだけなら良いのだが、と白石は考えてしまう。というかそうあってほしい。きっと家族も同じだろう。単なるサボりのほうが良いに決まっている。

 マンション周りのゴミや空室のポストのチラシを抜き取り、ゴミを集めて、管理人室のゴミ箱に捨てていると、約束の時間になった。

 玄関前に中年の女性が立っている。目が合って会釈した。玄関から外に出てもう一度会釈して、挨拶した。

「ラッキールームの白石と言います。岩井様でしょうか」

「はい」

 ずいぶん急いでここに来たのか、目の前にあった服をとりあえず着たという格好をした中年の女性が白石に会釈を返した。

「わざわざご足労いただいてすみません。そういえばご出身はどちらなんですか?」

 岩井の出身地を知らない白石は、母親がずいぶん焦っているように感じて訊ねた。

「Y県です。Y県のM郡」

 Y県M郡というと結構な田舎だ。そこから来たのであればそれは時間がかかっただろう。

「新幹線ですか?」

「はい。車でS駅まで送ってもらって、そこからは」

 などと話しながら中に招き入れ、エレベーターに乗った。白石は五階のボタンを押す。

 五階で降りた二人は、廊下一番奥にある五〇三号室の前に立った。

 とりあえず、白石はインターフォンを鳴らしてみた。何度か鳴らしたが在宅の気配がない。

 母親と顔を見合わせて、今度はドアを叩いて声で呼びかけてみた。

「岩井さん、いらっしゃいますか?」

 それでも応答がない為、白石は声をかけながらドアの鍵を開けた。

「岩井さん、入りますよ。お母様もいらっしゃっていますから」

 ドアを開けた途端、ぶんっと羽音を立てて大きなハエが飛び出してきた。

 嫌な予感を抱きながら、玄関に入る。

 玄関には靴が揃えて置かれていた。出掛けている様子はない。ただ床が見えないくらい衣服やものが敷き詰められていたのにはぎょっとした。ゴミとまではいかないが、家にあるあらゆるものを床に置いているように見える。

 ぷんと腐った匂いがする。それに混じって何かが焦げたような臭い。部屋にはハエが数匹飛んでいる。母親が白石を押しのけて、躊躇なく部屋の中に入っていった。

「真美、真美いるの!?」

 それに白石も続く。

 四角いテーブルの上には、ハエがたかっている食べかけの腐った食事と床に広げた読みかけの雑誌。散らかっている以外は生活感が残ったままだ。テーブルにはスマートフォンも置き放してある。長いこと放置しているのか、充電が切れていた。スマートフォンのそばには財布と鍵もあった。

 白石は微動だにせず部屋の真ん中の床を見つめていた。あの渦を巻く黒い穴が開いている。じっと見ていると床に置いた衣服が穴に吸い込まれていくような錯覚が起きた。

 母親がロフトに上がって娘の名前を呼んでいる。

 穴から目をそらし、カーテンを開けてベランダへ出ようとした。が、鍵がかかっている。

 おかしい。何かがおかしい。何がおかしいのか。白石は手の中の鍵を見た。

 玄関とベランダへのサッシには鍵がかかっていた。

 まるで食事中に忽然と消えてしまったような生活感がある部屋。靴と財布と鍵、スマートフォンまで部屋に残されている。

 これまで失踪した他の部屋の住人と同じ。まるで煙のように消えてしまった。白石の背筋に冷たい汗が吹き出した。

 穴をもう一度見る。今は開いているだけに見えるが、無視できるものではない。それに、あの穴は危険だと白石の頭の中で警鐘が鳴り響いている。だからこそ近づかないようにしていた。

 なすすべもなくただ見ているしかなかった白石の脳裏に、亜都里のことが思い浮かぶ。三〇三号室にも穴が開いている。白石の本能は穴が原因だと知らせてくるが、今までと同じように他の原因を探さなければならない。

 残念なのは五〇三号室や他の住人には何もしてあげられなかったことだ。しかし、三〇三号室の亜都里にはまだ出来ることがあるだろう。たとえば、あの穴が感じたとおりの悪いものであれば、気休めかも知れないが魔除けの護符があると思い出した。

「一体どこに行っちゃったの……」

 ロフトから降りてきた母親が不安そうに呟いた。

「岩井様、娘様の行きそうな場所がありましたら、そちらにも問い合わせたほうが良いかと思います。それと、やはり警察に失踪届を出されたほうが良いかと」

 第三者が絡んでいるのかどうかも分からないが、まずは現実的な穴以外の可能性を探したほうが良いだろう。

 母親が思い当たるところがあるのか電話をかけている。何件か電話をかけたようだが、手がかりはなさそうだった。

 結局、母親は警察に失踪届を出して部屋の生ゴミなどを片づけると、娘のスマートフォンなどを持って、いったん帰っていった。

 白石は明日の休日にK市にある寺へ角大師つのだいしの魔除けの護符をもらいに行くことにした。




 日曜日に白石は自家用車で、F市からK市まで国道を通って向かう。F県だと天台宗K寺と他一寺でしか手に入らない護符を手に入れるために行く。白石も日頃から恩恵にあずかっている護符だ。霊験あらたかで、部屋に貼っておくと明らかに霊を除くことに効き目があるようで、ある一定期間変なものを部屋で目撃することが激減する。

 これを亜都里に渡して部屋に貼らせることで、少しでも穴の影響を弱らせることが出来るのではないかと考えたのだ。

 K寺を念入りに参拝したあと、御守りや護符を販売している窓口へ行き、角大師の護符を自分と亜都里用に二枚購入した。

 護符と言われる半紙には、頭から二本の角を生やした黒くて醜い歪な鬼が描かれている。これだけ見ると禍々しい護符に見えるが、病魔や厄を除けてくれるものなのだ。

 本当にこれだけのためにK市まで来たが、目的を果たして白石は達成感を覚えた。

 これで必ずとは言わないまでも、少しは状況が変わるのではないかと期待する。亜都里だけでも忌まわしい何かに引き込まれないように出来るかもしれない。亜登里自身はこんな物をもらっても迷惑だろうし、白石自身もお節介だと自覚していた。

 昼過ぎにはF市に戻ってきて、自宅から『リバーサイド■■南』まで歩いていく。一応一筆したためて、護符といっしょに封筒に入れておいた。

『もしも変なことが部屋で起きていたら、気休めかも知れませんが部屋に貼ってみてください』

 彼女が留守なら、この封筒をポストに入れておけばいい。

 マスターキーを持っていたが、いきなり部屋のインターフォンを鳴らすのは驚くだろうから、白石はアプローチのインターフォンを鳴らした。

 しばらくして、『はい』と亜都里の応答があった。

「中里さん、白石です」

 多分、白石の顔は亜都里には見えている。だからか、亜都里の固い声音が安心したように和らいだ。

『白石さん、どうしたんですか』

「お渡ししたい物があって」

 すると、自動ドアが開いた。白石は階段で三〇三号室に向かった。

 玄関に出てきた亜都里はげっそりとやつれ、かなり痩せてしまっていた。この三週間で亜都里に何があったのか、白石は不安を覚える。

 ドアの隙間から見える部屋はまだ荒れていない様子だ。亜都里も痩せている以外に気になる点はなかった。

 ただ、中に入らなくても部屋から漏れてくる焦げた臭いと異様な雰囲気に白石は身構える。渦を巻きながらぽっかりと口を開ける黒い穴が脳裏に浮かぶ。

 本当に亜都里はなんともないのだろうか。白石は震える手で封筒を持ち、亜都里に差し出した。

 亜都里が不審そうな表情を浮かべて、差し出された封筒を受け取った。

「少しでも変なことが起きたら、これを部屋のどこでも良いので貼ってください。気休めかもしれないですけど」

「これ、何ですか?」

 亜登里に尋ねられて白石は正直に説明する。

「お寺でいただいたお札です。魔除けのお札なので何かあったら防いでくれると思います」

 亜都里が封筒を見つめて呟く。

「お札……ですか?」

「お札です」

 白石を見る彼女の目が不安の色に染まっていく。何か言いたそうにしているけれど、言うことを躊躇っているようにも見える。

「何かありましたか?」

 亜登里が言えないなら、白石のほうから切り出せば良いと思い切って訊ねてみた。

「……何も。ちょっと疲労が溜まってるみたいで」

 強ばった笑顔を浮かべて、亜都里が「お札、わざわざありがとうございます」と頭を下げた。

「あ、いいえ。気にしないでください。もし気味が悪かったら貼らなくて良いので。身につけてるだけでも違うから。すみません、休日の時間に押しかけてきて」

 白石は慌てて、「それじゃあ、失礼します」と頭を下げる。

「ありがとうございます」

 亜登里が何度もお礼を言いながら鉄扉を閉めた。

 嫌がらずに護符を受け取ってくれたことに安堵のため息が出た。貼るか貼らないかは分からないし亜都里の意思に任せるけれど、護符があの部屋にあるという事実だけでも何かが違うと思った。




 週が明けた火曜日の朝、岩井が遺体で発見された。

 マンション前の道路で焼死体となって横たわっていた岩井に気付かず、車が誤って轢いてしまうという痛ましい事故が起こったのだ。通報の知らせを受けた白石が駆けつけたときには、近所の野次馬が集まりやいのやいのと騒いでいる。警察がブルーシートで事故現場を囲っているところだった。

 遺体が岩井だと分かったのは午後で、被害者が住んでいたマンションの前で見つかったことから、白石は事情聴取を受けた。

「被害者と言うことは事故死とか自殺じゃないってことですか」

 すると、警官がいかめしい表情を浮かべる。

「まだお答えすることは出来ません。それで、岩井さんはいつからいなくなったんですか? 一昨日の土曜日にご家族から失踪届が出ていますが」

「そうです。岩井様のお母様が来られて、警察に失踪届を出されました。いつ頃いなくなったかは分からないですが、ポストに一週間分くらいチラシが入ってました」

 おそらく、岩井の母親も呼ばれているだろう。そのときに失踪時の部屋の状態など聞かれるかもしれない。

「それにしても以前他にも住人の方がここで自殺されましたよね」

 気になる関係者などはいないかなどと訊ねられたが、白石は住人のプライベートに関しては知りようがなかったので、正直に分からないと答えた。

 人間関係など近隣トラブルも訊ねられたので、岩井がトラブルに巻き込まれて殺されたのではないかと疑っているようだ。今までの不審火も理由に含まれているのだろう。

 自殺ではないのなら当然そうなるだろうと白石は音を立てないように静かにつばを飲み下した。

 この通りで不審な自殺が何度も起こっている。それも『リバーサイド■■南』の住人ばかりだ。投身自殺だったり、やはり焼死だったり。投身自殺の時、どこから飛び降りたか分からなくて、結局向かいの商社ビルの窓から落ちたのだとされた。マンションのどの部屋もベランダの鍵はかかっており、屋上へも出られなかったからだ。

 警察が教えてくれなくても、近隣の噂好きの住民がマンションの住人に嫌でも口伝えてくる。どうも焼死した被害者はここで焼け死んだのではなく、別の場所からここに遺棄されたのだという。それで不審死だと警察は疑っているのだ。

 結局、殺人事件と言うことになり、ニュースでも報道されたのだった。

 ほとぼりが冷めるまで、このマンションの内見を冷やかしに来る客が増えるだろうと、ラッキールームの社長が頭を抱えたのを見て、白石もため息を吐いた。

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