屍喰い蝶の島 三月二十二日④
港にはまだ観光客がいる。釣り客が夜釣りの準備をしている。チャーター船を貸し切り、沖合でカツオかマグロか、巨大な魚を釣るつもりなのだろう。親子が港を散歩している。夜空に輝く無数の星を指さして楽しそうに談笑している。
きっとこの中のだれかが、御先様の祟りで海に牽かれるのかも知れない。それも明日の朝には分かることだ。自分は朝の七時に出る、定期船に乗って宿毛市の片島港へ渡る。大学に戻ったら、二十四日の研究論文発表会で、七人ミサキに関する論文のスピーチをするのだ。
シジキチョウのことが気にかかる。今回はたったの四日間で調べなければならなかった。今度来るときは万全の準備をして、シジキチョウに挑もう。
手の中で溶けたシジキチョウのことがふと脳裏をよぎる。これも強烈な腐臭が見せた幻覚だ。現実にあるわけがない。夜須は自分の手を見た。血のような液体はどこにも見当たらない。
港に吹き付ける海風が冷たくて、ブルゾンのポケットに手を入れる。すると、乱暴にポケットに突っ込んでいた、わだつ日記に気がついた。鍾乳洞の地図もしわくちゃだった。
かんべに戻ったら、惣領屋敷をかんべの親父に見に行ってもらい、自分は部屋でゆっくりとこの日記を読もう。昼間、パラパラとめくっただけで、内容を全て頭に入れているわけではない。昼間は見落としたシジキチョウに関する記述がどこかにあるかも知れない。
かんべの看板が掛かった建て屋の引き戸のガラス格子から、煌々と明かりが漏れている。明かりがあることに安堵を覚える。ずっと心の片隅に籠もっていた感覚が徐々に薄らいでいった。
「あ、すみません、食堂はもう終わってるんです」
見たことのない顔の青年が、かんべの引き戸を開けた夜須に声をかけてきた。おそらく、夜須がかんべを出たあと、バイトとして島外からやってきたのだろう。
「あら、この人は宿泊の人ちや。おかえりなさい。夕食の準備出来ちゅーぜ」
おかみさんがバイトにそう言って、夜須を見やった。
夜須は部屋に戻ることよりも早く言わねばならないことがあった。惣領屋敷のことを伝えて、見に行ってもらうのだ。
「あの、惣領屋敷のことなんですが」
おかみさんが元気な声で答える。
「あそこは空き家やきね。行ってきたがか。雅洋はおったか?」
夜須はできるだけ大変だという演技をしてみせる。
「い、いや。あそこに井戸があったでしょう。あの中に首が浮いてたんですよ! 誰か見に行ってくれませんか」
「首?」
おかみさんがあっけにとられたような顔つきになる。
「首ですよ、首! ほら、締め殺しの木の側にある井戸! 塩害で飲めなくなったって」
すると、調理場にいる親父がカウンターから身を乗り出した。
「ああ、あの井戸ね。あの井戸がどうしたんや?」
「首が浮いてたんですよ! 誰か確かめてもらえないですか」
すると、親父もおかみさんも顔を見合わせて困ったような表情を浮かべた。
「明日じゃいけないか?」
首があったと知らせても親父は少しも慌てた様子がないどころか、惣領屋敷に行くこと自体、躊躇っているようだった。
こいつらなんなんだ、と夜須は内心苦い思いで二人を見た。
しばらくの沈黙のあと、バイトの青年が口を開いた。
「あの、俺が行きましょうか」
「あら、ええが!?」
即座におかみさんがほっとしたように言った。
「いいですよ。でも惣領屋敷がわかんないんで案内してもらえれば」
そう言いながら、バイトがエプロンを脱いで、椅子の背もたれにかけた。
「石段を登っていった先にあるからすぐに分かるよ」
夜須は案内したくなくて、そう説明した。青年はそれでも一人で行くのは心細いのかもじもじと引き戸の前にいる。
「おまさん、案内しちゃってくれんか」
親父が苦笑いを浮かべて、夜須に頼んできた。夜須はおかみさんのほうを見ると、なんとも言えない表情を浮かべて困ったように笑っている。
夜須はこの島の因業を思い出して、心の中で舌打ちした。
この島の連中はあの井戸のことを、首塚があそこに移動したことを知っているのだろうか。
「あの井戸って、何か謂れでもあるんですか」
「惣領屋敷の井戸のことか?」
親父の返事に、夜須は少し苛ついた。知っている上で言っているならとんだ狸である。
「謂れねぇ。こじゃんと昔に海水が混じるようになったき塞いだ、というがは曾祖父さんから聞いたな。塞いだのは曾祖父さんよりずっと前の話やったらしいな」
「鍾乳洞前にある泉に首塚があったと思うんですけど、その井戸の横に移動してあったんですよ。誰がやったんですかね」
どうにかして井戸に関心を持たせて見に行こうかと思わせられるか、夜須は何度も試した。
「首塚を? 事故で死んだ先代が持っていったんかな。それとももっと前の代でかなぁ」
交野の親は事故死したのか、と夜須は不思議に思い、訊ねる。
「交野の両親、事故死したんですか」
「雅洋の親は海で死んだぜよ。先々代も海やったかな。せっかく漁師やめたのになぁ。あそこの男はみんな早死にやき」
初耳だった。交野がいなくなったのはやっぱり自殺するためだったのだ。なおのこと井戸に行って調べてほしい。この因縁を、元々背負っているはずの島民に代わってもらいたい。
「昨日、交野の話をしたじゃないですか。もしかすると井戸に交野が落ちたかも知れないし、バイトだけじゃ無理でしょう。だれかいませんか」
親父が頬を掻く。
「そがなん言うてもなぁ。駐在さんは大浦にしかおらんし……」
怒鳴ってやりたい思いを押し殺して、精一杯困った顔つきで、夜須は食い下がった。
「なんですか。ここの習わしが怖くて外に出ないつもりですか。だれかが死んだかも知れないのに、無視ですか」
「そがなつもりやないぜよ。確認して何事もないことだってあるやないか。なぁ?」
親父は同意を求めるようにおかみさんを見た。
「その子、結構しっかりしちゅー子やし、この島に慣れちゅーき。心配やろうけんど、確認をしに行ってくれるかしら」
押し問答になってきて、埒があかない。
「俺一人じゃ無理なんで、付いてきて下さいよ。案内してくれたらすぐ帰っていいですから」
気を遣って、バイトが言った。
夜須は怒鳴りそうになるのを呑み込み、
「じゃあ、途中まで案内するよ」
と、悔しい思いで結局折れた。
かんべを出ると辺りはずいぶんと暗くなっており、ちらつく外灯の光が届かない場所で闇がわだかまっている。心地いい波の音だけが港に満ち満ちている。太平洋側だからか、それとも季節的なものなのか、それほど潮の匂いはきつくない。山裾まで石段を登っていくと、さすがに波の音は聞こえなくなった。
夜須は惣領屋敷へ向かう石段へと案内した。四つに石段が分かれた所から、さらに上がった場所に惣領屋敷があると伝えた。
一応懐中電灯を持って来たバイトが、懐中電灯の光すら呑み込んでしまう暗闇に怖じ気づいたのか、夜須に付いてきてほしいと言い出した。
「井戸の場所が分からないんで、教えて下さいよ」
そんなの勝手に調べて、一人で行けよ、と夜須は悪態をつきそうになったが、ぐっと堪える。
「仕方ないなぁ。すぐわかるんだけどなぁ」
「そこを頼みますよ、お客さん」
バイトも、雇い主の言うことを聞いていないとクビになるかもと言う心配をしているようだ。
しかし、あそこに戻るのは、本気で難しい。あんな薄気味の悪い思いを再び味わいたくない。
夜須は門扉の前までは来たが、ここまでが限界だった。
何の因縁もない島外から来たバイトなら、幻覚を見ることもないだろう。どうすれば、渋るバイトを中に入らせるか、それが問題だった。脅してもいいが、あとがややこしくなるので、夜須は苦し紛れに言い放った。
「金をやるから一人で観に行ってくれ!」
「でも……」
「いくらでもやるよ。ほら」
尻ポケットから財布を取り出して、中に入っている万札を何枚か、バイトの手に押しつけた。
最初はあっけにとられていたバイトだったが、万札の枚数に満足したのか、引き受けてくれた。
「それじゃ、いってきます」
バイトが懐中電灯を持ってスタスタと中に入っていく後ろ姿を、夜須は見送った。あの腐敗臭は蓋を開け放したままなので、すぐに気がつくだろう。井戸の縁まで首が溢れていたから、見えないとか沈んだとかもないはずだ。
腐って頭蓋骨から剥けた皮膚と髪が、隣の肉と混ざり合って、もはや顔の肉だったことすら分からない。黒ずんだ灰色と茶色い腐肉がドロドロに水の中で溶けきっている。
目をつぶれば、それをはっきりと思い出せる。今に絶叫が庭から聞こえてくるだろう。夜須はバイトが叫ぶのを今か今かと待ち続けた。しかし、いつまで経っても悲鳴は聞こえてこなかった。
まさか中で気絶なんかしてないだろうな、と夜須はやきもきする。明かりもない、月の光だけが頼りの暗闇に、いつまでも放置されているのは正直辛かった。しかし、様子を見に屋敷に入ってしまって、おかしな幻覚を見ないとは限らない。
この門扉前にいるだけで、気味が悪い音が聞こえてくるかも知れない。想像を逞しくする必要などないはずなのに、どうしても考えてしまう。今自分が何かに怯えているのだと認めたくなかった。
あまりに静かなので、夜須もとうとう落ち着いておられず、バイトの青年を呼んだ。
「おーい、君!」
だが、返事はない。気が焦って、門扉から中を覗く。
暗くて何も見えない中、月明かりが照葉樹の葉に照り返り、チラチラと光っている。山の空気の清廉な香り。夜闇のしっとりとした感触。冷たい風。時折聞こえる野鳥のけたたましい声。
その中に人がいること自体、場違いな気がしてしまうくらいに、山と海の厳粛な夜。それと同時に、人でないものの存在を許してしまう夜の深い幽玄。ぽっかりと開いたありもしない穴に落ちていくような錯覚を覚えて、ますます不安になっていく。
こんな夜に、何に遭遇してしまってもおかしくはない。恐ろしいくらいの闇に包まれて、自分を失ってしまいそうだ。
「おーい! どうしたんだ!!」
せき立てられるように夜須は叫んだ。バイトが中で倒れているかも知れないという考えが頭をよぎる。けれど、助けに行く気はさらさらない。かんべに戻って、何度でも親父に助けてやれと言うつもりだ。それでも一歩でも家から出たくないと言い張るようなら、和田津の恐ろしい一面を確信するだけだ。
「おーい! 大丈夫かー!?」
何度も呼んで、ようやく微かに返事をする声を聞いた。
よかった……、俺は中に入らずに済んだ。それだけが、暗闇に怯えていた夜須を安堵させた。
やがて、懐中電灯の明かりとざしゅざしゅと砂利を踏む音が近づいてきて、バイトの姿が見えてきた。
「すみません。いろいろ見てたもんで」
「首、首があっただろう? 井戸の中に」
すると、バイトの青年がきょとんと目を丸くする。
「何言ってんすか。井戸は確かにありましたけど、中には何もなかったですよ?」
「は?」
これには、夜須は咎めるような返事をするしかなかった。
「あっただろう! 腐った首の山が! 反吐が出る臭いだってしてたはずだ!」
バイトが困惑した顔で答える。
「なかったですよ……、一体何を見たんですか。確かに井戸はありましたけど、首なんてなかったし、水だって涸れてましたよ。石を落としてみたら、音がしましたもん」
「何言ってんだ。俺が嘘をついたとでも言いたいのか? ああ!?」
バイトが慌てたように笑顔を作りなだめてくる。
「そんなことは言ってないですよ。落ち着いて下さいよ。本当に何もなかったんです。そんなに疑うのなら、一緒に中に入って確かめましょうよ」
中に入るくらいなら死んだ方がましだ。入らなければ入らなかったで、やはり夜須は自分があの幻覚を信じていることにもなる。夜須は頭に血が上って、顔が赤らむのが分かった。夜須の目がつり上がり、一見すると怒りで我を忘れたのではないか、と疑われてしまいそうだ。バイトが、そう考えて身を引いているのが分かる。